概要
大航海時代を迎えたヨーロッパで、ポルトガルは早くに進出しました。インドのゴアに次ぎ、マレー半島のマラッカにも到達し、ポルトガルは香辛料獲得の目的を一応果たしました。ところが、マラッカにおける中国商人・琉球商人との接触で、進路がさらに東アジアへと向けられ、やがてポルトガルは日本と接触することになりました。
大航海時代
香辛料を求めて
インド・東南アジアの香辛料、中国の絹織物をヨーロッパ人は欲しました。
14世紀以来、オスマン帝国がこれらの交易に重税をかけました。
ヨーロッパ諸国は、オスマン帝国を経由しない「海上」に目を向けました。
ヨーロッパは大航海時代を迎えました。
香辛料
絹織物
オスマン帝国と大航海時代
海上に早く進出した国は、①スペインと②ポルトガルでした。
①スペインの航路
メキシコ・太平洋横断(1492年、コロンブスが新大陸に到達)
フィリピンのマニラが貿易拠点
②ポルトガルの航路
喜望峰経由(1498年、ヴァスコ=ダ=ガマがインド西岸に到着)
インドのゴアが貿易拠点、マレー半島のマラッカにも進出
ヴァスコ=ダ=ガマ
香辛料確保の目的はすでに果たされましたが、ポルトガルは中国の生糸・絹織物をさらに求め、明からマカオでの居留を許されました。
ポルトガル人が中国へ往来するなか、嵐に遭った船が日本の漂着しました。
南蛮貿易の始まり
南蛮人との出会い
1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着しました。
島主種子島時尭が彼らから鉄砲を買ったことで、日本に初めて西洋式の銃が伝わり、瞬く間に各地で製造されました。
鉄砲
足軽鉄砲隊の登場、城の変化(壁の強化など)を促進
有名な生産地は、和泉堺・近江国友・紀伊国根来
ポルトガル人が漂着した岬(門倉岬)
種子島時尭
以後、ポルトガル人が九州各地の港に来港して貿易をおこないました。
また、スペイン人も1584年に肥前国平戸に来航し、貿易を開始しました。
当時、ポルトガル人・スペイン人は南蛮人と呼ばれたので、彼らとの貿易を南蛮貿易と言います。
南蛮人の来航
南蛮貿易の輸出品
明が私貿易を禁止する海禁政策をとったので、南蛮は日本への中継貿易を担当
スペインはメキシコで銀を入手できたので、日本への進出が遅延
銀
貿易とキリスト教布教の一体化
1549年、カトリックであるイエズス会(耶蘇会
)のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着しました。
ザビエルは豊後国の戦国大名大友義鎮(大友宗麟)や、周防国の戦国大名大内氏(大内義隆)の保護を受けて布教を開始した。
プロテスタントに対抗するため、カトリックはアジアでの布教に熱心
戦国大名によるキリスト教保護は、南蛮からの軍需品供給が目的
フランシスコ=ザビエル
ザビエルの上陸場所
ザビエルの後、ガスパル=ヴィレラ、ルイス=フロイスらが布教に努めました。
教会堂である南蛮寺、神学校(初・中等教育学校)のセミナリオ、宣教師養成・高等教育学校のコレジオが建てられました。
キリスト教を信仰する大名キリシタン大名も登場しました。
キリシタン大名
大友義鎮は洗礼名Franciscoの略「FRCO」の印判を使用
南蛮寺
セミナリオ跡(安土)
キリシタン大名黒田如水の印判(Simeon Josui)
ヴァリニャーニの勧めで、キリシタン大名の大友義鎮・有馬晴信・
大村純忠
は、天正遣欧使節(4人の少年)をヨーロッパに派遣しました。
伊東マンショ(主席正使)
千々石ミゲル(正使)
中浦ジュリアン
原マルチノ