桃山文化

表記について
概要
信長・秀吉の時期を居城の地名にちなんで安土・桃山時代とも呼び、そして、この時代の文化を桃山文化と呼びます。桃山文化の特徴は、「豪華絢爛」の一言に尽きます。大名は権威を示すために、視覚的にも訴える華美な絵画・装飾を好み、その題材には分かりやすい花鳥・風景が選ばれました。反面、難解な仏像彫刻は衰退しました。

桃山美術

建築

戦国時代、城は武備に徹したものであり、山城が大半でした。
安土・桃山時代以降、城は城下の人々に威光を広く示す役割も担い、また、支配の利便性を考慮して平山城ひらやまじろ平城ひらじろ となりました。
城は中核をなす高層の天守閣てんしゅかく ・石垣・くるわをもちました。
このような城の建築様式を城郭じょうかく建築と呼びます。
平山城
小高い丘の上に築城
土塁やほりで囲まれた小区画
城の内部は書院造という住宅様式

山城・平山城・平城

天守閣・郭

代表的な城郭建築・その他建築

姫路ひめじ
連立式という複数の天守閣が存在

姫路城
伏見ふしみ
移築した遺構が都久夫須麻つくぶすま神社本殿・西本願寺書院

伏見城

都久夫須麻神社
聚楽第じゅらくてい
移築した遺構が大徳寺唐門からもん・西本願寺飛雲閣 ひうんかく

聚楽第

大徳寺唐門

西本願寺飛雲閣
(出典:フォト蔵

絵画

城郭建築の内部は、権威を視覚的に高めるために装飾されました。
欄間らんまにはすかぼり の彫刻である欄間彫刻が施され、また、壁・屏風びょうぶなどには障壁画が描かれました。
障壁画は、金箔地きんぱくじに青・緑を彩色する濃絵 だみえでした。
障壁画の題材には、深い教養をもたずに理解できる花鳥や風景が好まれました。
障壁画
水墨のものと金碧濃彩のものに分かれ、特に後者を濃絵と呼称
濃絵
視覚的に訴えやすいため、大名が見栄えや威厳強調に利用
障壁画の担い手の中心は狩野派でした。
安土城などの障壁画を描いた狩野永徳は、水墨画と大和絵の技法を融合して障壁画を大成しました。

障壁画(濃絵)

絵師と代表作

狩野永徳
『唐獅子図屛風』『洛中洛外図らくちゅうらくがいず屏風』
織田信長は、永徳作『洛中洛外図屏風』を上杉謙信に贈呈

『唐獅子図屛風』

『洛中洛外図屛風』
狩野山楽
松鷹図まつたかず』『牡丹ぼたん図』

『松鷹図』

『牡丹図』
海北友松かいほくゆうしょう
『山水図屏風』

『山水図屛風』
長谷川等伯とうはく
『松林図屏風』『智積院襖絵ちしゃくいんふすまえ

『松林図屛風』

印刷

後陽成天皇の勅命を受け、木製活字で印刷・出版された書籍を慶長勅版と呼びます。
朝鮮侵略で金属活字が伝来し、これをもとに木製活字を作製

民衆の生活

千利休は茶の儀礼を定め、茶の湯(茶道)、特に佗茶を大成しました。
千利休の佗茶は簡素を重んじ、華やかな桃山文化でも異色を放ちました。
妙喜庵茶室
豊臣秀吉の命を受けて千利休が考案・造作した茶室

千利休
茶の湯は、諸大名の保護を受けて大いに流行しました。
1587年、秀吉は京都北野で茶会(北野大茶湯おおちゃのゆ)を開き、千利休を含む茶人を中心に、貧富・身分の別なく民衆を参加させました。

芸能

歌舞伎

17世紀初め、出雲阿国いずものおくに が、念仏踊りに簡単なしぐさを加えた阿国歌舞伎という踊りを京都で始めました。
阿国歌舞伎をもとに女歌舞伎が生まれたが、後に江戸幕府に禁止されました。
次いで少年の演じる若衆歌舞伎が流行ったが禁止され、17世紀半ばから成人男性だけの野郎歌舞伎になりました。
かぶき踊り…異様な姿の者「かぶき者」の踊り

出雲阿国

人形浄瑠璃・小歌

琉球から渡来した三味線を伴奏に人形を動かす人形浄瑠璃や、堺の商人高三隆達たかさぶりゅうたつが小歌に節付けをした隆達節が流行りました。

三味線

その他

盆踊りが各地でおこなわれました。

衣食住

小袖の一般化、男女の結髪けっぱつ
1日3食の一般化
都市:二階建ての住宅、瓦葺きかわらぶき の屋根

小袖を着た信長の妹