江戸時代④

表記について

列強の接近

列強の接近と幕府の対応

時期 出来事(★=幕府の対応策)
1786 田沼時代 工藤平助『赤蝦夷風説考』
最上徳内らが千島を探査
1792 寛政の改革 林子平『海国兵談』(1786年『三国通覧図説』)
★処罰
ロシア使節ラクスマンが根室に来航
通商要求、漂流民大黒屋光太夫の送還
幕府は通商を拒否
1798 大御所時代 近藤重蔵らが択捉島を探査
1804 ロシア使節レザノフが長崎に来航
通商要求
幕府は拒否
1807 ★幕府、全蝦夷地の直轄化(松前藩は奥州へ転封)
1808 間宮林蔵が樺太を探査=間宮海峡の発見
フェートン号事件
イギリス軍艦が長崎に侵入
1811 ゴローウニン事件
幕府がロシア軍艦の艦長ゴローウニンを国後島で拿捕
ロシアが高田屋嘉兵衛を国後島で拿捕
1821 ★幕府、蝦夷地を松前藩に返還
1825 異国船打払令無二念打払令)発布
背景:フェートン号事件以降、イギリス・アメリカ船が出没
1828 シーボルト事件
帰国時に国外持出し禁止の日本地図所持
1837 モリソン号事件
アメリカ商船が浦賀に来航
通商要求、漂流民の送還
幕府は異国船打払令に基づき撃退
1839 ★蛮社の獄
渡辺崋山・高野長英を処罰
原因:『慎機論』・『戊戌夢物語』でモリソン号事件を批判

蝦夷地

間宮海峡

江戸周辺

開国

開国までの流れ

時期 出来事
1840 大御所時代 アヘン戦争(~1842)
清がイギリスに敗北
南京条約
1842 天保の改革 異国船打払令の緩和
薪水給与令
*アヘン戦争の影響
1853 安政の改革 アメリカ使節ペリーが琉球王国を経由して浦賀に来航
フィルモア大統領の国書を提出(開国要求)、回答は翌年に
1854 ペリーの再来航、日米和親条約調印=開国
1856 アメリカ総領事ハリスが米国との通商条約の調印を要求
1858 日米修好通商条約調印=違勅調印・不平等条約

ペリー来航後の幕府の対応(安政の改革)

老中首座阿部正弘の対応

内容

朝廷へ報告、諸大名へ相談
朝廷・諸大名の発言力増大
幕政参加
前水戸藩主徳川斉昭・越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬
国防強化
江戸に蕃書調所講武所(武術訓練機関)を設置、江戸湾に台場を構築、長崎に長崎伝習所を設置

日米和親条約(1854.3)

老中首座阿部正弘の下、ペリー再来時に締結

内容

アメリカ船への燃料・食糧の給与、難破船や乗組員の救助
2港の開港(下田箱館)と領事駐在の承認
アメリカへの一方的(片務的)な最恵国待遇を付与

日露和親条約(1854.12)

内容

3港の開港(下田・箱館・長崎)の開港
国境画定:
日本…択捉島以南
ロシア…得撫島以北
樺太は両国人雑居の地

北方の領土画定

日米修好通商条約(1858)

老中首座堀田正睦、通商条約調印の勅許を朝廷に求めるが失敗
大老井伊直弼、孝明天皇の勅許を得られないまま断行(違勅調印)

内容

長崎・神奈川(のち横浜)・新潟・兵庫(のち神戸)の開港
下田は閉鎖
領事裁判権の承認
治外法権を許す
関税自主権の欠如
日本に税率の決定権のない協定関税を採用
安政の五カ国条約(1858)
オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の通商条約を締結

各港と江戸湾

貿易の開始

当初は輸出超過、最大貿易国…イギリス、貿易港…横浜が中心
主な貿易品:
輸出品
生糸(79.4%)・(10.5%)・蚕卵紙(3.9%)
輸入品
毛織物(40.3%)・綿織物(33.5%)
*1865年時点
改税約書締結(1866)
輸入関税率を引下げ
輸入超過に転じる(1867)

開港の影響

在来産業
生糸の輸出
養蚕業・製糸業が発達
安価な綿織物の輸入
綿作・綿織物業が衰退
経済の混乱
在郷商人-横浜の流通ルート形成で、江戸の物資不足
五品江戸廻送令(1860)
雑穀・水油みずあぶらろう・呉服・生糸の横浜直送を禁止
金銀比価問題
日本と海外の金銀比価の相違から大量の金貨が海外流出
万延小判の鋳造(金の含有量を減らす)
物価上昇に拍車
世直し一揆の発生
幕末・維新期に世直しを求めた一揆