江戸時代⑤

表記について

天保期の藩政改革

雄藩の登場

外様を中心に、諸藩が幕府権力からの自立を図る
雄藩
中・下級武士を登用し、藩財政の建て直しに成功、軍事力の強化
主な藩主 登用者 改革の内容
薩摩 島津斉興なりおき 調所広郷 黒砂糖の専売、琉球との密貿易、藩主島津斉彬なりあきらの時に集成館の設置
長州 毛利敬親たかちか 村田清風せいふう 紙・蠟の振興、越荷方の設置
土佐 山内豊信とよしげ おこぜ組の登用、財政再建
肥前 鍋島直正 陶磁器の専売、均田制の実施

公武合体構想

井伊直弼の独裁

井伊直弼(彦根藩主)が大老に就任(1858)

通商条約

孝明天皇の勅許を得ず、日米修好通商条約調印(1858)
尊王派・攘夷派の志士、一橋派の大名などの非難

将軍継嗣

一橋派(一橋慶喜よしのぶを推挙)
松平慶永よしなが・島津斉彬・徳川斉昭なりあき
南紀派(徳川慶福よしとみを推挙)
井伊直弼ら譜代大名
紀伊藩主徳川慶福を将軍継嗣に(14代将軍徳川家茂)決定

安政の大獄(1858~1859)

志士・一橋派など100余人を弾圧
処罰:徳川斉昭、死罪:橋本左内(越前)・吉田松陰(長州)

桜田門外の変(1860)

水戸脱藩士らによる井伊直弼暗殺

公武合体構想

公武合体

朝廷と幕府の協力下で政局の安定を図る
公=朝廷(推進者:孝明天皇)、武=幕府(推進者:老中安藤信正・雄藩)
孝明天皇の妹の和宮と14代将軍徳川家茂の結婚(1862)

坂下門外の変(1862)

安藤信正らが水戸脱藩士らに襲撃され負傷

文久の改革

島津久光が幕政改革を要求

内容

公武合体の中で雄藩主導の体制を画策
政事総裁職…松平慶永
将軍後見職…一橋慶喜
京都守護職…松平容保
参勤交代の緩和
3年1勤、江戸在府期間の短縮など、西洋式軍制

生麦事件(1862)

島津久光一行が江戸からの帰途でイギリス人殺傷
イギリスの報復=薩英戦争
薩摩は開国の方針に転換

江戸幕府の滅亡

公武合体構想の頓挫

幕府の動き 薩摩藩の動き 長州藩の動き 朝廷の動き
1863 攘夷決行の指示
(1863.5.10付)
下関で攘夷決行
(外国船砲撃)
幕府に攘夷の要求
(1863.3)
1863.8 八月十八日の政変
公武合体派(幕府・薩摩藩など)が尊王攘夷派を京都から追放
長州藩と尊王攘夷派の公家(三条実美ら)を朝廷から追放
1864.6 池田屋事件
新撰組による襲撃
1864.7 禁門の変蛤御門の変
長州藩急進派が上京するが敗北
1864.8 四国艦隊下関砲撃事件
4ヵ国が下関を占領
1864.7 第1次長州征討
長州藩は幕府に降伏・恭順

公武合体構想の頓挫

幕府、雄藩の参加を伴う公武合体構想を拒否
薩摩藩
公武合体構想を放棄

倒幕への動き

英仏対立
英パークスは薩摩・長州に、仏ロッシュは幕府に接近
薩摩
西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が政権掌握
公武合体から倒幕へ方向転換
長州
高杉晋作・桂小五郎らの尊攘派が藩の主導権獲得
恭順から倒幕へ方向転換

倒幕

幕府の動き 薩摩藩の動き 長州藩の動き 朝廷の動き
1866.1 薩長同盟
薩摩・長州両藩が「開国・倒幕」で一致
1866.6 第2次長州征討
薩摩は出兵拒否、14代将軍徳川家茂の死で失敗
孝明天皇の死
1867.8 ええじゃないか」の流行(~1868.4)
世直しの願望が表出した大衆の乱舞
1867.10 大政奉還
朝廷に政権を返上
討幕の密勅
薩摩・長州が岩倉具視と結んで討幕の勅書を獲得
大政奉還で無効化
1867.12 王政復古の大号令
天皇中心の政権樹立、三職(総裁・議定・参与)の設置
小御所会議(王政復古の大号令発布の夜)
三職の会議、徳川慶喜の辞官納地(内大臣辞退と領地返上)を決定
1868.1~1869.5 戊辰戦争
新政府軍VS.旧幕府軍
【経過】
1868年1月、鳥羽伏見の戦い(京都)
1868年4月、江戸城の無血開城
幕臣勝海舟と新政府軍西郷隆盛の交渉
1869年5月、東北諸藩が新政府に抵抗=奥羽越列藩同盟(東北25藩+越後6藩)
1868年9月、会津藩敗戦=東北諸藩鎮圧
1869年5月、五稜郭の戦い(箱館)
旧幕臣榎本武揚ら降伏
*榎本武揚
降伏後、新政府で活躍し、樺太・千島交換条約の締結に尽力