明治時代②

表記について

士族の反乱と自由民権運動

士族の反乱

背景
士族解体に対する不満、征韓派の下野で結束
1874年、佐賀の乱(江藤新平が征韓を主張)
1876年、神風連の乱(熊本)・秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)
1877年、西南戦争(西郷隆盛、士族の最大最終の反乱)

自由民権運動の展開

運動の状況 民権派の動き 政府側の動き
初期運動 民撰議院設立建白書(1874)
藩閥官僚の専断(有司専制)批判
国会開設を要求 政社結成
署名:
板垣退助・後藤象二郎・副島種臣ら
*愛国公党の結成
*「日新真事誌」に掲載
政社結成
立志社(土佐)・愛国社(大阪)
大阪会議(1875)
大久保利通・木戸孝允・板垣退助の三者会談
国会開設の方針決定
漸次立憲政体樹立の詔(1875)
元老院・大審院の設置、地方官会議の開催
讒謗律・新聞紙条例(1875)
地方三新法
郡区町村編制法府県会の設置、
地方税に関する規則(1878)
国会開設請願 立志社建白(1877、片岡健吉ら)
国会期成同盟結成(1880)
国会開設請願を太政官に提出
国会開設請願を不受理
集会条例(1880)
民権派の言論・集会・結社を制限
開設準備 国会開設の公約をうけ政党結成
自由党
党首板垣退助、フランス流
立憲改進党
党首大隈重信、イギリス流
立憲帝政党
党首福地源一郎、政府系
私擬憲法作成
立志社「日本憲法見込案」
地域住民「五日市憲法草案
植木枝盛「東洋大日本国国憲按」
明治十四年の政変(1881)
背景:
国会開設時期をめぐる政府内の対立
即時開設論(大隈重信)VS.時期尚早論
契機:
開拓使官有物払下げ事件(1881)
政商五代友厚への安価な払下げ発覚
結果:
大隈重信を機密漏洩の疑いで罷免
国会開設の勅諭(1881)
1890年の国会開設を公約

松方財政(明治十四年の政変後)

1870年代後半
西南戦争の軍費調達のため不換紙幣を乱発
インフレーション進行
松方財政
大蔵卿松方正義によるデフレーション政策(1880年代前半)
官営事業払下げ推進、軍事費を除く緊縮財政、不換紙幣整理
日本銀行の設立(1882)
中央銀行として設立
日本銀行が日本銀行券発行(1885)
銀兌換開始(1886)
松方財政の影響
緊縮によるデフレ=松方デフレ
深刻な不況
農民の負担増加*増税に加え、地租は定額・金納であったため
自作農の没落=地主の土地集積⇒寄生地主制の確立

自由民権運動の激化と失速、再燃

運動の状況 民権派の動き 政府側の動き
動揺 農民の民権運動離脱、一部急進化 松方デフレ(1882~1885)
激化~失速 福島事件(1882)
福島県令三島通庸に対し河野広中ら蜂起
秩父事件(1884)
困民党中心の最大の激化事件
民権運動の衰退 =政党解党(自由党・立憲改進党)
伊藤博文が渡欧して憲法研究(1882~1883)
ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインに師事
帰国後、草案の起草開始
*ドイツ人ロエスレルが顧問
華族令(1884)
維新の功労者・藩閥官僚も華族とする
貴族院開設に向け、構成員の準備が目的
再燃 国会開設の時期迫る
運動再燃
大同団結運動(1886~1889)
星亨が提唱
後藤象二郎が継承
三大事件建白運動(1887)
*三大事件=言論・集会の自由、 地租の軽減、外交失策の回復
内閣制度の制定(1885)
太政官制廃止
*内閣から分離して宮内大臣・内大臣設置
宮中・府中の別を明確化
保安条例(1887)
民権派を東京外へ追放
枢密院の設置(1888)
市制・町村制府県制・郡制公布 (1888~1890)
*ドイツ人モッセが顧問
政治参加 大日本帝国憲法発布(1889.2.11)
*衆議院議員選挙法・皇室典範も同時 帝国議会の開始(1890~)

憲法と諸法典の整備

大日本帝国憲法の発布

欽定憲法
天皇が憲法を定めて国民に与える
欽定憲法
天皇主権
天皇の地位
神聖不可侵・統治権の総覧者
天皇大権
統帥権(陸・海軍の最高指揮権)・緊急勅令・戒厳令など
*統帥権は内閣からも独立し、天皇に直属(統帥権の独立)
臣民の権利・義務
権利
「法律の範囲内」で保障
義務
兵役・納税
内閣
各国務大臣は天皇にのみ責任を負う、天皇の統治を輔弼する機関
帝国議会
二院制(貴族院・衆議院)、天皇の協賛機関、法律・予算の審議権

諸法典の整備

フランス人法学者ボアソナードを招き、各種法典を起草させる
刑法公布(1880)、商法、民事・刑事訴訟法公布(1890)
民法典論争
民法公布(1890、ボアソナードが草案起草)
一部の法学者が反対
穗積八束「民法出デゝ、忠孝亡ブ」
施行延期、のち大幅修正して公布