昭和時代②

表記について

昭和初期の恐慌

金融恐慌の発生

第一次世界大戦終結後~昭和初期の恐慌

戦後恐慌(1920)
第一次世界大戦による好景気の反動
震災恐慌(1923)
関東大震災が契機、震災手形の未決済
*震災手形
関東大震災で決済不能になった手形

金融恐慌の発生(1927)

契機:片岡直温蔵相(第1次若槻礼次郎内閣)の失言
一部銀行の不良経営が発覚
恐慌発生
銀行の信用失墜、取付け騒ぎ発生
銀行の休業続出=金融恐慌

金融恐慌への対応

第1次若槻礼次郎内閣(1926.1~1927.4)*与党:憲政会
鈴木商店が金融恐慌で倒産
この不良債権を持つ台湾銀行の救済案
枢密院の反対で否決され、実施できず
*枢密院は幣原外相の対中国外交に不満
田中義一内閣(1927.4~1929.7)*与党:立憲政友会
3週間のモラトリアム(支払猶予令)、日本銀行の非常貸出し
金融恐慌の収束

井上財政と昭和恐慌の発生

浜口雄幸内閣(1929.7~1931.4)*与党:立憲民政党
井上準之助蔵相の緊縮財政
金輸出解禁(金解禁、1930)
旧平価による実施
実際の為替相場よりも円高な相場で解禁、産業合理化の狙い
世界恐慌の発生(1929)
日本にも波及、輸出激減
昭和恐慌
昭和恐慌
企業の操業停止・倒産
失業者増大
農村では生糸・繭価の暴落、豊作飢饉
農業恐慌
*財閥は金輸出再禁止を予測して円売り・ドル買いを進める

高橋財政と昭和恐慌の克服

犬養毅内閣(1931.12~1932.5)*与党:立憲政友会
高橋是清蔵相の積極財政

昭和初期の外交

田中義一内閣の積極外交

田中義一は外相兼任、中国には強硬姿勢、欧米諸国には協調
対中国
山東出兵(1927~1928)
蔣介石率いる国民革命軍の北伐に対する出兵、1次~3次
済南事件(1928)
第2次山東出兵中に国民革命軍と衝突
張作霖爆殺事件(1928)
関東軍が奉天で張作霖を爆殺
*この処理をめぐって天皇の信任を失い、田中内閣総辞職
対欧米
ジュネーブ軍縮会議(1927)、パリ不戦条約締結(パリ、1928)

浜口雄幸内閣の協調外交

与党:立憲民政党
幣原喜重郎外相による協調外交が復活
英米との武力的対立回避、中国への内政不干渉
ロンドン海軍軍縮条約調印(1930)
補助艦保有量の制限、米:英:日=10:10:7(厳密には対米比率6.98)
統帥権干犯問題
政府による兵力量決定は統帥権を犯すと批判、軍令部・右翼・野党立憲政友会の不満

国内の動揺―軍部の台頭

政党内閣の崩壊

青年将校や右翼が政党・財閥に不満、国家改造運動を推進
テロ事件が発生

1931~32年のテロ事件

事件名 事件内容
1931.3

三月事件 桜会と右翼大川周明らによるクーデター未遂事件
1931.10

十月事件 桜会と大川周明らが起こしたくーデータ未遂事件
1932.2~3

血盟団事件 *血盟団
井上日召率いる右翼団体 井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井合名会社理事長)暗殺
1932.5

五・一五事件 海軍青年将校らによる犬養毅首相暗殺
「憲政の常道」の終了

二・二六事件

背景
陸軍内部の派閥対立
皇道派VS.統制派
経過
岡田啓介内閣の時に勃発(1936.2)
皇道派が、腐敗した政党や財閥の打破、天皇親政を目指してクーデター決行
結果
反乱軍として鎮圧、岡田内閣総辞職、統制派が実権確立
影響
広田弘毅内閣の成立(1936.3)
組閣に当たって陸軍の要求を入れる
軍部の発言権が増大
軍部大臣現役武官制の復活(1936)