推古朝(7c初め)
推古天皇の即位
推古天皇・天皇の甥厩戸王・蘇我馬子の3者による改革
推古朝の政治
内政
603年、
冠位十二階
才能・功績に応じて12段階で序列化
604年、
憲法十七条
豪族に官吏としての自覚を促す道徳的訓戒
『国記』『天皇記』の編纂=厩戸王・蘇我馬子が編纂した歴史書
仏教の興隆=権威の象徴の変化(古墳⇒仏教寺院)
寺院建立(蘇我馬子の飛鳥寺、厩戸王の法隆寺など)
厩戸王の三経義疏(法華経・維摩経・勝鬘経の注釈書)の編纂
外交
607年、遣隋使
小野妹子の派遣=国書で中国に臣属しない立場を主張
隋の皇帝煬帝から無礼とされる
608年、煬帝が裴世清を倭国へ派遣=高句麗遠征を控え、倭国は無視できない
608年、小野妹子の再派遣=旻・高向玄理・南淵請安が同行
*618年、隋の滅亡⇒唐の建国
皇極・孝徳朝(7c前半)
蘇我氏の滅亡
643年、蘇我入鹿の山背大兄王襲撃
645年、
乙巳の変
中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我氏打倒
蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子滅亡
大化改新
*大化…日本初の年号(大化元年=645年)
人事刷新=孝徳天皇即位、中大兄皇子(皇太子)、中臣鎌足(内臣)、旻・高向玄理(国博士)
遷都=難波宮
=公地公民制の実施、行政区画の制定(「評」などの設置)、班田収授法の制定、税制の改革
*『日本書紀』収録の「改新の詔」では、「評」を「郡」と表記
斉明・天智朝(7c後半)
斉明朝(655~661)
阿倍比羅夫が水軍を率いて東北の蝦夷征討
天智朝(668~671)
663年、
白村江の戦い
倭国が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
*661~668年、中大兄皇子は皇太子のまま称制(即位せずに政治をおこなう)
*660年、百済が唐・新羅の連合軍によって滅亡
*668年、高句麗が唐・新羅の連合軍によって滅亡
白村江の戦い敗戦後⇒国内改革に専念
国防強化
九州に烽・防人
、大宰府の北に水城
、対馬~大和に朝鮮式山城
国内体制の整備
667年、近江大津宮に遷都
668年、近江令の制定
*実在に疑いあり
670年、
庚午年籍の作成
初の全国的戸籍、永久保存を命令
皇位継承の争い
672年、
壬申の乱
大海人皇子(天智の弟)と大友皇子(天智の子)の皇位争い
大海人皇子の勝利
天武・持統朝(7c後半)
天武朝(673~686)
672年、飛鳥浄御原宮に遷都⇒天武天皇即位
天武天皇の政治
天皇の神格化=天皇を中心とした中央集権的国家の形成
国史の編纂開始=『帝紀』『旧辞』の再編纂
飛鳥浄御原令の制定開始
*689年、持統天皇の下で施行
684年、
八色の姓
豪族の身分を皇族中心に再編成(真人・朝臣など)
銭貨の鋳造=富本銭の鋳造
持統朝(690~697)
*持統天皇…天武天皇の皇后
飛鳥浄御原令の施行
690年、庚寅年籍の作成=以後6年ごとに戸籍作成