米ソの動揺と平和共存への転換

概要
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表記について

米ソの高まる緊張と緩和への転換

キューバ危機

アメリカ大統領ケネディの登場

1961年、アメリカでは民主党の ケネディ  が、初のカトリック教徒 の大統領として就任しました。
ケネディは「ニューフロンティア」というスローガンを掲げ、積極的な国内改革を推進しました

キューバ危機と核戦争の回避

1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚しました。
この事態に、アメリカ大統領 ケネディ  は、ミサイル資材を運搬するソ連船を海上で封鎖しました。
米ソともに譲歩せず、核戦争に発展しかねない状況、所謂いわゆる キューバ危機  が発生しました。
キューバ危機は、ケネディとフルシチョフによる次の合意で回避されました。
アメリカ:
キューバの内政への不干渉
ソ連:
キューバのミサイル基地の撤去

核管理体制の強化

キューバ危機を経験した米ソは、核戦争の危機に直面したことで、次のように核管理体制を強化しました。

アメリカの動揺

ケネディ政権期

1950年代から、アメリカでは キング牧師 が公民権運動を指導しました。
アメリカ大統領ケネディは、運動に理解を示し、公民権法を提案しました。
しかし1963年、 ケネディ  は南部遊説中に暗殺されました。

ジョンソン政権期

1963年、 ケネディ  が暗殺され、後継として ジョンソン  が大統領に就任しました。
ジョンソンは、アメリカから差別と貧困をなくす「偉大な社会」計画を提唱しました。
成果
1964年、 公民権法  成立
人種・宗教・性・出身国などによる差別を禁止する法
失敗
1965年、北ベトナムへの爆撃とベトナム戦争の開戦
1968年、キング牧師が暗殺され、人種暴動が発生

東側陣営の停滞

1964年、ソ連の首相兼第一書記フルシチョフが解任されました。
コスイギンがソ連首相に、 ブレジネフ  が第一書記に就任し、国内の自由化の進展を抑えました。
一方、他の社会主義国のなかでは、自由化の動きが進み始めました。
1968年、 プラハの春 
 チェコスロヴァキア  で民主化を求める運動が起こり、共産党書記長 ドプチェク  の下で自由化路線が進行
ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍 が、チェコスロヴァキアに侵攻して弾圧
以降、社会主義国では改革が阻まれ、政治や経済が停滞しました。

ヨーロッパでの緊張緩和

米ソの緊張緩和の影響

キューバ危機後、米ソの緊張が緩和すると、その影響がヨーロッパに現れました。
1975年、全欧安全保障協力会議(CSCE)
アルバニアを除く全ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダの首脳がヘルシンキに集まり、主権尊重などをうたったヘルシンキ宣言を採択

西ドイツの東方外交

1969年、西ドイツで社会民主党を中心とする連立政権が成立しました。
西ドイツ首相 ブラント  は、ソ連や東欧諸国との関係改善を図る、次のような 東方外交  を推進しました。

東西ドイツの接近

1972年末、西ドイツと東ドイツが相互承認し、1973年、両国の国際連合加盟が実現しました。

軍事政権・独裁体制の崩壊

1970年代、南ヨーロッパでは軍事政権や独裁体制が打倒されました。

ポルトガル

ポルトガルは、植民地での独立運動をうけ、体制が動揺しました。
1974年、ポルトガルの独裁体制が崩壊しました。

スペイン

1975年、スペインのフランコが死亡し、ファン=カルロス1世が後継に指名されました。
1978年、スペインは新憲法により民主的君主制に移行しました。

ギリシア

1967年以来、ギリシアは軍事政権になりました。
1975年、ギリシアは民主政に復帰しました。