中ソ対立とプロレタリア文化大革命

表記について
概要
1956年、ソ連のフルシチョフがスターリン批判をおこなったことで、中華人民共和国とソ連の意見対立が目立つようになりました。毛沢東は、1962年のキューバ危機でソ連がミサイル基地を撤収したこと、その後にソ連がアメリカとの平和共存路線をとったことを批判しました。毛沢東の批判は論争の段階を超え、やがて国境紛争へと発展しました。

毛沢東の強硬姿勢

「大躍進」の失敗

1950年代、中華人民共和国は戦前の農工業生産額を上回りました。
しかし、強引な工業化・農業集団化は共産党の支配への批判を招きました。
1950年代後半、毛沢東 は工業・農業の急激な発展を目指すスローガン「大躍進 」を掲げました。
農村では農業集団化を図る人民公社 が設立されました。
しかし、毛沢東の掲げた大躍進は、生産の急減など多大な犠牲を出して失敗しました
1959年、毛沢東にかわって劉少奇りゅうしょうきが国家主席となり、計画経済を見直しました。
人民公社
農村部における生産活動と行政・教育活動などを一体化した組織
毛沢東
国家主席辞任後も、共産党主席を継続

隣接する諸国との衝突

チベット

1959年、チベットで反中国運動 が発生しました。

インド

中華人民共和国とインド軍の間で中印国境紛争が起こりました。

中ソ対立

共産党主席の毛沢東は、アメリカとの対決路線を採りました。
そのため、ソ連がアメリカとの平和共存路線を採ったことを批判しました。
1960年、ソ連は中華人民共和国への経済援助を停止しました
1963年以降、社会主義の路線をめぐる中ソ論争が始まりました。
1969年、中ソ国境紛争
ウスリー川の中ソ国境で起こった軍事衝突

プロレタリア文化大革命

共産党内の対立

中華人民共和国国家主席の劉少奇と共産党主席の毛沢東は、中国共産党内の対立を起こしました。
1966年、毛沢東は、劉少奇 鄧小平とうしょうへいらを資本主義の復活を図る「実権派 走資派)」と批判しました。
毛沢東 は権力闘争プロレタリア文化大革命 を展開し、学生が中心となって組織した紅衛兵 を動員して大衆運動を盛り上げました。
文化大革命で劉少奇 が失脚し、国家主席は廃止されました。
文化大革命末期、毛沢東の権威を背景に、「四人組 」が権力を握りました。
1976年、毛沢東が死去すると、首相の華国鋒は四人組を逮捕しました。
1977年、文化大革命の終了が宣言されました。

四つの現代化

10年間のプロレタリア文化大革命は、社会的な混乱と共産党内の対立をもたらしました
1981年、復権した鄧小平 は①農業②工業③国防④科学技術の「四つの現代化 」を推進しました。