概要
395年、ローマ帝国が東西に分割されました。西ローマ帝国は1世紀も経たずに滅ぼされましたが、東ローマ帝国ことビザンツ帝国はおよそ1000年続きました。ビザンツ帝国ではローマ帝国からキリスト教を国教として継承し、独自に発展させました。
ローマ帝国の東西分割
ディオクレティアヌス帝の治世
3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。
- 四帝統治(テトラルキア)
帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治
- 専制君主政(ドミナトゥス)
皇帝を神として礼拝させ、専制君主化
四帝統治を示す像
コンスタンティヌス帝の治世
コンスタンティヌス帝は、迫害されてきたキリスト教を公認し、帝国の統一を図りました。
330年、古代ギリシアの植民都市ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ローマより遷都しました。
コンスタンティヌス帝
315年、ローマに凱旋門を建造
コンスタンティヌス帝
凱旋門
改革を支える重税は、あいつぐ属州の反乱を招きました。
375年に始まるゲルマン人の大移動で帝国は混乱に陥りました。
テオドシウス帝の治世
395年、テオドシウス帝は、帝国を東西に分割して2子に分け与えました。
東:ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープル)
西:西ローマ帝国(首都ローマ)
ローマ帝国の分裂
西ローマ帝国の滅亡
476年、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされました。
キリスト教
キリスト教の成立
ローマの属州となったパレスチナでは、ユダヤ教祭司や利法の実行を重んじるパリサイ派が、 ユダヤ人を支配する層として存在しました。
彼ら支配層は、貧困に苦しむ民衆の声に応えようとしませんでした。
イエスは、祭司やパリサイ派を批判し、貧富の区別ない神の愛を説きました。
民衆はイエスを救世主(メシア)と信じて彼の教えに従いました。
ユダヤ教祭司やパリサイ派がイエスをローマに対する反逆者として訴えたため、イエスは処刑されました(30年頃)。
弟子たちはイエスの復活と贖罪を信じ、この信仰を中心にキリスト教が成立しました。
キリスト教の教典
『旧約聖書』と、コイネーというギリシア語で記された『新約聖書』
伝道活動
ペテロやパウロなどの使徒によって伝道活動が始まりました。
特にパウロは、神の愛がユダヤ人以外の民族にも及ぶとして、パレスチナ以外の地域にもキリスト教を布教しました。
迫害から国教化へ
ローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされました。
皇帝崇拝が強化されると、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は反社会集団とされました。
64年のネロ帝による迫害や303年のディオクレティアヌス帝による迫害が有名です。
迫害の一方でキリスト教は拡大を続け、信仰を禁止すれば帝国の維持ができない状況となりました。
次のようにキリスト教の扱いが変化しました。
アタナシウス派
後に神・キリスト・聖霊を同一視する三位一体説を確立
392年、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としました(他宗教は厳禁)。
キリスト教が国家権力と結びつくと、聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。
ネストリウス派
431年のエフェソス公会議で異端とされたが、唐代の中国に伝わり、景教と呼称