概要
ローマの政治家カエサルは、独裁的な権力への野心を抱きました。この動きは、共和政の伝統を守ろうとする者たちによって阻止されました。カエサルの死後、オクタウィアヌスが台頭し、ローマ皇帝となって政治・軍事の実権を握ります。彼はカエサルと異なり、共和政の伝統を尊重しました。
地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
- 前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
- 前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
- 前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、
政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
『
ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
カエサル
第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
- カエサルの部下アントニウス
- カエサルの部下レピドゥス
- カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、
アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
アクティウムの海戦
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。
アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。
このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。
以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
- ネルウァ(在位96~98)
- トラヤヌス(在位98~117)
- ハドリアヌス(在位117~138)
- アントニヌス=ビウス(在位138~161)
- マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマ帝国の最大領域
ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された
小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした
。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました
。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の
農奴制の先駆形態となりました
。