封建制と教皇の権威

概要
ゲルマン人の大移動は、西ヨーロッパに強者による生命財産の保護という価値観を形成しました。これにより、主君が家臣の領地を保護し、家臣は軍事的忠誠を誓うという封建制が成立します。皇帝・国王・騎士などの上下関係が決まっていくなか、聖職叙任権問題をきっかけに皇帝と教皇の権力関係も決定づけられました。
表記について

封建社会の成立

高まる土地の価値

民族大移動の混乱で、西ヨーロッパでは貨幣よりも土地や現物が価値をもつようになりました。
また、他勢力の侵入から生命財産を守るため、弱者は強者による保護を必要としました。
10 ~11世紀、主君が家臣に領地(封土ほうど)を与えて保護し、かわりに家臣は主君に軍事的忠誠の義務を負う 、という結びつきが生まれました。
この結びつきに立脚した社会制度を封建制と言います。
封建
元来は中国古代の周の制度を指す用語だが、土地を媒介する主従関係という点で似通うためこの語を使用

封建制

起源

封建制は、ローマの恩貸地制とゲルマンの従士制が結びついて成立しました
恩貸地制
自分の土地を有力者に献上してその保護下に入った後、改めて有力者からその土地を恩貸地として貸与してもらう制度
従士制
貴族や自由民の子弟が、他の有力者に忠誠を誓ってその従者になる慣習

主従関係の契約

西ヨーロッパの封建制の主従関係は、主君・家臣の両方に契約を守る義務がありました。
家臣は、主君の違反に対して服従を拒否することができました。
また、家臣は複数の主君をもつこともできました。

国王の位置づけ

諸侯は、それぞれが多くの騎士を家臣として従えました。
諸侯の権力は国王に並ぶほどで、国王も実質的には諸侯の1人に過ぎない存在でした。

領主の立場と権利

封建的主従関係を結ぶ者は、それぞれが土地をもち、そこに住む農民を支配する領主でした。
領主の所有地は荘園と呼ばれ、また、そこに住む農民は農奴と呼ばれました。
領主は、荘園を単位として農奴を支配しました
領主は国王の役人が荘園に立ち入ったり課税したりするのを拒む 不輸不入権  (インムニテート)をもちました。
そして、領主は荘園と農奴を自由に支配する裁判権ももちました。

農奴制

荘園に住む農民は農奴と呼ばれ、古代の奴隷とは異なり、家族や住居を持つことができました
ただし、農奴は不自由身分であり、領主の裁判権の下に置かれ 、また、移動の自由が認められませんでした
農奴は、領主に対して労働する義務「賦役」と、生産物を納める義務「貢納」を負いました
また、農奴は領主のほか、教会に対しても税を納めました
かつてのコロヌス制は、農奴制の先駆形態とみなされています 復習

教皇の権威

ローマ=カトリック教会

ローマ=カトリック教会は、ビザンツ帝国やコンスタンティノープル教会を含む東方の教会(後のギリシア正教会)から独立していきました。
11世紀 、キリスト教世界はローマ=カトリック教会とギリシア正教会に完全に分裂しました 。
詳しくは、1054年に相互に破門宣告して名実ともに分裂

教会の堕落

ローマ=カトリック教会は、西ヨーロッパ世界に普遍的な権威をもちました。
教皇を頂点とした聖職者のピラミッド型の階層制組織がつくられました。
教会は農民に 対して 十分の一税  を課し、教会法に基づく独自の裁判権をもちました。
十分の一税
収獲の十分の一を教会に納める税
皇帝や国王などの世俗勢力は、財力と権威を求め、身内の者を聖職者の地位に任命して教会に介入しました。
聖職者の地位が売買され、教会は堕落しました。
聖職叙任権
この頃は教会の支援者である皇帝や国王にも聖職者を任命する権利

教会の改革と聖職叙任権問題

10世紀、聖職売買などの教会の腐敗に対して改革運動が起こりました。
この運動の中心となったのが、フランスの クリュニー修道院  でした。
教皇 グレゴリウス7世 は、この運動を押し進め、次のことに取り組みました。
神聖ローマ皇帝 ハインリヒ4世  (ドイツ王)はこれに反発し、聖職叙任権をめぐって教皇グレゴリウス7世と対立しました。
闘争が強まると、教皇グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世を破門しました
破門
キリスト教世界では公民権の喪失を意味し、様々な社会生活を送ることが困難
1077年、 カノッサの屈辱 
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に謝罪して 破門を許された出来事
教皇の権威が皇帝を上回ると示す契機となった出来事
以降、教皇の権威は西ヨーロッパ全体に及び、13世紀の インノケンティウス3世  の時に絶頂に達しました。