概要
ローマ帝国が東西分裂して以来、東ヨーロッパは西ヨーロッパと歩みを別にしました。ビザンツ帝国はギリシア古典文化を継承し、また、ゲルマン人の大移動による被害もうけなかったため、文化・商業・貨幣経済の面で西ヨーロッパに対して優位に立ちました。東ヨーロッパのスラブ人は、このビザンツ帝国と影響をうけ、ギリシア正教に改宗していきました。
ビザンツ帝国の繁栄と滅亡
ビザンツ帝国の優位性
395年にローマ帝国が東西分裂して以来、東ヨーロッパは東ローマ帝国に支配されました。
後にこの帝国はビザンツ帝国と呼ばれ、首都コンスタンティノープル
を中心に繁栄しました。
コンスタンティノープル
ギリシアの植民都市ビザンティウムがローマ帝国の領土になり
、4世紀、コンスタンティノープルと改称
ビザンツ帝国はギリシア古典文化を継承し、西ヨーロッパに対して文化的に優位を保ちました。
加えて、ゲルマン人の大移動による打撃をうけず、西ヨーロッパと異なり、貨幣経済が衰えませんでした
。
ビザンツ帝国皇帝の立場
西ヨーロッパでは、皇帝と教皇という2つの権力が並び立ちました。
対して、ビザンツ帝国皇帝は、政治の最高権力者であると同時に、ギリシア正教会の首長をも兼ね、聖俗の権限を掌握していました
。
ギリシア正教会はビザンツ帝国皇帝の支配下
ローマ帝国の再建
6世紀、ビザンツ帝国皇帝
ユスティニアヌス帝
は、北アフリカの
ヴァンダル王国
やイタリアの
東ゴート王国
を滅ぼしました。
地中海世界が再び統一され、ビザンツ帝国は全盛期を迎えました
。
ユスティニアヌス帝のモザイク画
ユスティニアヌス帝は、『ローマ法大全
』の編纂や、ビザンツ様式の聖ソフィア聖堂
(ハギア=ソフィア聖堂)の建立をおこないました。
また、この時代には東方の中国から養蚕技術が伝わり、絹織物業が発達しました
。
ユスティニアヌス帝の死後、国力が低下し、ランゴバルド王国
にイタリアを奪われました。
さらに7世紀、シリア・エジプトを失いました。
周辺地域に新たな国が建国されていく中、ビザンツ帝国は勢力圏を縮小させていきました。
帝国の滅亡
11世紀、トルコ系のセルジューク朝
が西方へ進出し、ビザンツ帝国を脅かすようになりました。
この脅威にビザンツ皇帝がローマ教皇に援助を求めたことが、十字軍派遣の契機となりました。
13世紀、第4回十字軍
が首都コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国
を建国しました。
後に復活しましたが、1453年、オスマン帝国
に滅ぼされました。
ビザンツ帝国の社会・文化
土地制度の変遷
初期
当初、ビザンツ帝国ではコロヌスを使った大土地所有制度が主流でした。
4~10世紀
7世紀頃から、ビザンツ帝国は領土を軍管区に分け、軍管区の司令官に軍事・行政権を与えました
。
ビザンツ帝国のこの制度を軍管区制
(テマ制)と言います。
軍管区では、兵士や農民に土地を与え、軍役を課す制度屯田兵制
がとられました。
結果、小土地所有の自由農民が増えました。
11世紀~
貴族が農奴を使って形成する大土地所有制がとられました。
そして、皇帝は軍役奉仕と引き替えに貴族に領地を与えるプロノイア制
をとりました。
文化
ギリシア古典文化の継承
ギリシア古典文化は、ビザンツ帝国へと継承されていました。
ビザンツ帝国では、7世紀以降、公用語がラテン語からギリシア語になりました
。
ビザンツ帝国は、ギリシア古典の研究を蓄積して、優れた文化遺産を残しました
。
旧ヘレニズム世界を継承したビザンツ帝国の公用語は当初ラテン語
学問の中心は、キリスト教神学で、聖像崇拝論争が繰り広げられました。
美術
建築様式
ビザンツ様式の教会建築が建てられました。
ビザンツ様式は、モザイク画の使用を特徴の一つとします
。
ビザンツ様式の代表的な建造物は、聖ソフィア聖堂
(ハギア=ソフィア聖堂)と、ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂
です。
モザイク画
多様な色彩の石片・陶片・硝子・貝などの小片を寄せ集めた絵画
サン=ヴィターレ聖堂
この聖堂のモザイク壁画は、ビザンツ美術の代表
サン=ヴィターレ聖堂のモザイク画
*中央の人物がユスティニアヌス帝
イコン
キリスト教の聖母子などの聖像画イコンが描かれました。
聖母子のイコン
ギリシア正教
ギリシア正教が、ビザンツ帝国からスラヴ人(民族)に伝えられました
。
スラヴ人と周辺民族
スラヴ人の分布
6世紀、スラヴ人(民族)は、ビザンツ帝国北側の地域に広がりました。
東スラヴ人はギリシア正教の影響をうけ、西スラヴ人・南スラヴ人はローマ=カトリックの影響をうけました。
キエフ公国の最盛
9世紀、ノルマン人がドニエプル川流域に
ノヴゴロド国
、ついで
キエフ公国
を建国しました。
ロシアと呼ばれたこの地域のノルマン人は、東スラヴ人と混血していきました。
ロシア
キエフ公国のノルマン人を「ルーシ(ロシア)」と呼び、また、現在のウクライナにあたる地域の呼称にも利用
10世紀末、キエフ公国のウラディミル1世は、ギリシア正教
に改宗し、国教として受容しました。
これにより、キエフ公国はギリシア正教とギリシア文化を受け入れました
。
タタールのくびき
キエフ公国では、農民の農奴化と大土地所有が進みました。
大土地所有者の諸侯が割拠し、キエフ公国から複数の公国が分離・独立しました。
13世紀、モンゴル帝国のバトゥ
がロシアに遠征して征服地とし
、キプチャク=ハン国を建国しました。
キエフ公国は滅亡、分離・独立した他の公国はキプチャク=ハン国に屈しました。
以降、ロシアはキプチャク=ハン国、つまりモンゴル人の支配下に約240年間置かれました。
これをロシアでは、「タタールのくびき」と呼びました。
くびき
牛馬などのくびにつけ、車を引かせる束縛の道具
モスクワ大公国
モンゴルの支配からの脱出
キエフ公国から分離・独立した公国の1つに、モスクワ大公国がありました。
15世紀、モスクワ大公国は急速に勢力を伸ばしました。
1480年、モスクワ大公国は、大公イヴァン3世
の時にモンゴルの支配(タタールのくびき)から脱しました。
ツァーリの称号
大公イヴァン3世はビザンツ帝国最後の皇帝の姪ソフィアと結婚しました。
イヴァン3世は、自身をローマ帝国(ビザンツ帝国)の後継者とし、ツァーリ(皇帝)と自称しました
。
これをうけて15世紀に
、モスクワ大公国(後のロシア)の君主は、ツァーリの称号を用いるようになりました。
ツァーリ
ローマ帝国皇帝の称号「カエサル」のロシア語の形
農奴の制限
15世紀、イヴァン3世は農奴の移動の自由を制限する法令を発布しました
。
西スラヴ人・南スラヴ人
西スラヴ人
西スラヴ人のポーランド人・チェック人(チェコ人)は、キリスト教のうちローマ=カトリック
を受容しました。
ポーランド人
10世紀、西スラヴ人の一派ポーランド人が、ポーランド王国を建国しました
1241年、
ワールシュタットの戦い
ポーランド・ドイツ連合軍(ヨーロッパ諸侯軍)が、モンゴル帝国のバトゥが率いるモンゴル軍に敗れた戦い
14世紀、ポーランドとリトアニアが合同し、ヤゲウォ朝
(ヤゲロー朝)が成立しました。
チェック人(チェコ人)
10世紀、西スラヴ人の一派チェック人(チェコ人)がボヘミア王国
(ベーメン王国)を形成しました。
11世紀、神聖ローマ帝国に編入されました。
南スラヴ人
南スラヴ人のセルビア人は、当初ビザンツ帝国に服属し、キリスト教のうちギリシア正教
が受容されました。
12世紀に独立し、14世紀にはバルカン半島北部を支配する強国を築きました。
14世紀末以降、オスマン帝国の支配下に置かれました。
非スラヴ系諸民族
ブルガリア人(ブルガール人)
7世紀、非スラブ系のブルガリア人(ブルガール人)が、バルカン半島北部にブルガリア帝国を建国しました。
ブルガリア人は、後にスラブ人と混血し、キリスト教のうちギリシア正教を受容しました。
14世紀、オスマン帝国に併合されました。
マジャール人
10世紀、マジャール人がハンガリー王国
を建国し、キリスト教のうちローマ=カトリックを受容しました。
16世紀、オスマン帝国の支配下に置かれました。
スラヴ人の宗教受容の整理
- ロシア人
ギリシア正教
- ポーランド人
ローマ=カトリック
- チェック人(チェコ人)
ローマ=カトリック
- セルビア人
ギリシア正教
- ブルガリア人
ギリシア正教
- マジャール人
ローマ=カトリック