概要
古代以来続いてきた地中海世界は、フン人の西進、西ゴート族の移住に端を発するゲルマン人の大移動や西ローマ帝国の滅亡によって、政治的・文化的統一性を失いつつありました。そこにイスラーム勢力がイベリア半島から侵入し、喪失は決定的なものとなりました。
ゲルマン人の大移動
大移動に先立つ時代
ゲルマン人は、バルト海沿岸を原住地としました。
ゲルマン人は、西に勢力を拡大させ、アルプス以北のヨーロッパに住んでいたケルト人を圧迫しました。
紀元前後頃には、ゲルマン人はライン川から黒海沿岸まで広がり、ローマ帝国の領域と接するようになりました。
紀元前後頃のゲルマン人には、社会の階層分化がある程度進み、すでに奴隷もいました
。
この頃のゲルマン人の生活・慣習は、カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』に記されています。
ゲルマン人の大移動
ローマ帝政後期頃、ゲルマン人の耕地が不足し、後のゲルマン人の大移動の内的原因を形成していました。
4世紀後半、アジア系の
フン人(
フン族)
が西に進み、ゲルマン人の一部族である東ゴート族を征服、西ゴート族を脅かしました。
東ゴート族の大半は征服され、また、フン人の西進に圧迫された
西ゴート族
は、376年にドナウ川を渡ってローマ帝国内に移住しました。
西ゴート族の移動は、他のゲルマン諸部族のローマ帝国内への移動を引き起こし、約200年におよぶゲルマン人の大移動を始めました。
フン人の侵入
410年、西ゴート族はガリア西南部(スペイン・南フランス)に西ゴート王国を建国し、イベリア
半島を支配しました。
西ゴート王国のイベリア半島支配は、711年にイスラームの
ウマイヤ朝
に滅ぼされるまで続きました
。
他民族・他部族の動向
フン人の動向
5世紀、フン人(フン族)のアッティラ
がパンノニア(ハンガリー)を中心に帝国を建国しました。
ドイツに成立した『ニーベルンゲンの歌』は、この帝国がブルグント族を攻撃したことが題材の一部
451年、カタラウヌムの戦い
アッティラの軍が、西ローマ帝国・西ゴート王国・フランク王国の連合軍に敗れた戦い
アッティラの死後、帝国は崩壊しました。
西ゴート族以外のゲルマン人の動向
大移動後には、西ゴート族以外にも、次のゲルマン諸部族が建国しました。
フランク王国の成立・発展
メロヴィング朝
メロヴィング朝の成立
5世紀末、フランク人でメロヴィング家出身のクローヴィスが、フランク王国をガリア北部(フランス北部)に建国しました。
この時代のフランク王国を、クローヴィスの出自に基づき、メロヴィング朝と呼びます。
481年、クローヴィスは全フランク人を統一し、フランク王国を強国にしました。
正統派への改宗
当時、ゲルマン人の多くが、キリスト教の異端派とされたアリウス派を信仰していました
。
クローヴィスは、キリスト教正統派のアタナシウス派
に改宗し、ローマ人との関係を強化しました。
メロヴィング朝の衰退
6世紀、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼし、全ガリアを支配しました。
しかし、8世紀にメロヴィング朝は衰退し、王朝の行政・財政の長官である宮宰が実権を握りました。
イスラーム勢力の接近
711年、イスラーム王朝の
ウマイヤ朝が、イベリア半島にわたって
西ゴート王国
を滅ぼしました
。
ウマイヤ朝は、さらにピレネー山脈を越えてガリアに侵入しようとしました。
732年、
トゥール・ポワティエ間の戦い
メロヴィング朝の宮宰カール=マルテル
が、フランク王国領内に侵入したウマイヤ朝軍を撃退した戦い
キリスト教徒と西ヨーロッパに進出したイスラム教徒との戦い
カロリング朝
751年、カール=マルテルの子ピピン
は、ローマ教会に認められてフランク王国の王位につき、カロリング朝
を開きました。
ローマ教会の名のもとフランク王国は特別に扱われ、見返りにローマ教会への協力を期待されました。
ピピンは、イタリアのランゴバルド王国から土地を奪い、
後の教皇領の起源となる領地をローマ教皇に寄進しました
(ピピンの寄進)
。
このように、フランク王国側からも利害の一致からローマ教会と結びつきを強めていきました。
ローマ=カトリック教会の動向
ローマ教会の独自の歩み
ローマ帝政末期(3世紀末~)、初期キリスト教の五大教会(五本山)が、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリア
にありました。
五大教会のなかでも最有力は、ローマ教会とコンスタンティノーブル教会でした。
476年の西ローマ帝国滅亡後、ローマ教会は、コンスタンティノープル教会とは異なる独自の活動を展開しました。
例えば、6世紀末のローマ教会教皇グレゴリウス1世
は、ゲルマン人への布教をおこないました
。
結果、ローマ教会は西ヨーロッパに勢力を拡大し、教皇の権威が高まりました。
ビザンツ帝国との対立
初期キリスト教では偶像崇拝が禁じられていました。
しかし、布教の手段としてイエス・聖母マリア・聖人の聖像は都合がよく、多くのキリスト教徒が聖像を礼拝していました。
またローマ教会も、ゲルマン人への布教に聖像を必要としていました。
聖像をめぐる対立
726年、ビザンツ帝国皇帝レオン3世
は、次の2つの理由から聖像禁止令
(聖像崇拝禁止令)を発布しました。
- 初期キリスト教の教理に反するため
- 偶像を否定するイスラームに対抗するため
ローマ教会はこの禁止令に反発し、ビザンツ帝国・コンスタンティノープル教会との対立を強めました。
ローマ教会は、ビザンツ帝国皇帝に対抗する政治勢力の協力を求めました。
フランク王国への接近
ビザンツ帝国と対立したローマ教会は、政治勢力の協力が必要になりました。
折しもフランク王国宮宰カール=マルテルがイスラームからキリスト教世界を守った頃でした
。
ローマ教会はフランク王国に接近し、カール=マルテルの子ピピンが王位を継承することを認めました。
ピピンは、イタリアのランゴバルド王国から土地を奪い、
後の教皇領の起源となる領地をローマ教皇に寄進しました
(ピピンの寄進)
。
このように、フランク王国側からも利害の一致からローマ教会と結びつきを強めていきました。