東欧の民主化とソ連の解体

表記について
概要
1989年、東ドイツの政権が崩壊し、東西を分断していたベルリンの壁が壊されました。40年の分断を経て、ようやくドイツが1つに統一されました。そしてこの一か月後、米ソによって冷戦の終結が宣言されました。

東欧の民主化

内政干渉の否定

1988年、新ベオグラード宣言
ソ連書記長ゴルバチョフが、東欧の社会主義国への内政干渉を否定した宣言
東欧諸国の民主化が進展

民主化の波及

1980年、ポーランド ワレサ を指導者とする自主管理労働組合「連帯 」が組織され、共産党の一党独裁政権に改革を求めました。
1989年、複数政党制(多党制)での選挙が実施され、「連帯」を中心とする連立政権が成立しました。
「連帯」は、ポーランドの民主化を推進しました。
ワレサ
「連帯」の指導者で、1990年、ポーランドの大統領に選出
1989年、ハンガリー・チェコスロヴァキアにおいて、共産党一党体制が複数政党制に移行しました。
民主化の流れは、これらの東欧諸国以外にも及び、ルーマニアを除いてほぼ平和的に体制が移行しました。

ルーマニア

1989年、ルーマニア ではチャウシェスク の独裁体制が崩壊しました。
ルーマニアの民主化は、チャウシェスク夫妻が処刑されるなど流血を伴う革命でした。

東西ドイツの統一

1989年10月、東ドイツでは西側へ脱出する者が増加し、書記長のホネカーが解任されました。
1989年11月(ソ連の解体 )、ベルリンの壁 が開放され、東西ドイツ間の自由な往来が可能になりました。
1990 年、西ドイツが東ドイツを吸収して、東西ドイツが統一されました。

東欧社会主義圏の消滅

1991年、コメコン・ワルシャワ条約機構 が解体され、東欧社会主義圏が消滅しました。

ソ連の解体

ソ連の改革

冷戦の終結後、ソ連ではゴルバチョフ が次の改革がおこないました。

東欧の民主化の影響

ポーランドにはじまる東欧の民主化は、ソ連に影響を与えました。
ソ連の改革・解体の過程で、まずバルト3国 が、相次いで独立を宣言しました。
1991年、ソ連共産党の保守派がゴルバチョフの改革に反対してクーデタを起こしました
クーデタは失敗に終わり、ソ連共産党 が解散されました。
1991年、バルト三国を除く ソ連内のロシア共和国(現ロシア連邦)・ウクライナ ・ベラルーシなどの国々が、独立国家共同体 CIS)を結成しました。
結果、1991年にソ連 が解体しました。

不安定な情勢

1991年、ロシア連邦の初代大統領にエリツィンが就任しました。
エリツィンはロシアの資本主義化を進めましたが、不安定な情勢が続きました。
1994年、チェチェン紛争 勃発
ロシア連邦からの独立を求める北カフカスのチェチェン人に対し、連邦政府が武力鎮圧を試みて始まった民族紛争