概要
冷戦終結後、これまで社会主義政権下で抑えられていた民族・宗教間の対立が、社会主義政権の力が弱まったことで表面化しました。社会主義という枠が民族・宗教という枠に縮小し、まとまりが薄れて分裂する国もみられました。例えば、社会主義国のユーゴスラビアは多数の民族・宗教を抱えていましたが、19992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立して解体しました。解体後も、コソヴォがセルビアからの独立を目指し、紛争へと発展しました。
東欧・ロシアの地域紛争
ユーゴスラヴィア内戦
ユーゴスラヴィアは、「7つの国との国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と形容されたほど、複雑に構成された社会主義の連邦国家でした。
問題を抱えつつも、ユーゴスラヴィアは、ティトーの下で維持されていました。
1980年のティトーの死後
、そして冷戦終結後、ユーゴスラヴィアは武力を伴う激しい民族紛争を起こしながら
解体に向かいました。
1991~95年、
ユーゴスラヴィア内戦
スロヴェニア・クロアティア
がユーゴスラヴィアからの独立を宣言したのに対して、セルビア
・モンテネグロが連邦を維持しようとして起こった内戦
セルビアがNATO軍の空爆を受けて停戦し、ユーゴスラヴィアが解体
コソヴォ紛争
解体後の旧ユーゴスラヴィアでは、セルビアの自治州コソヴォの独立をめぐって紛争が起こりました。
1999年、人道的惨事の危険性が高まったため、コソヴォ紛争にNATO軍が介入しました
。
2000年、セルビアがコソヴォから撤退しました。
チェチェン紛争
1994年、
チェチェン紛争
勃発
ロシア連邦からの独立を求める北カフカスのチェチェン人に対し、連邦政府が武力鎮圧を試みて始まった民族紛争
中東・アジアの地域紛争
イスラエルとアラブ諸国の争い
第4次中東戦争
1973年、
第4次中東戦争
エジプト・シリアとイスラエルの戦争
1968年にサウジアラビア
が結成を主導したアラブ石油輸出国機構
(OAPEC)が、イスラエル支持国に対して原油輸出を停止(石油戦略)
石油輸出国機構(OPEC)が、原油価格を大幅引き上げ
シナイ半島の返還
第4次中東戦争後の
1979年、エジプト
の大統領サダト
は、イスラエルと次のことを合意した平和条約を結びました。
暫定自治政府の樹立
1993年、
パレスチナ暫定自治協定
(オスロ合意)調印
アメリカ大統領クリントン
の仲介で、イスラエル
の首相ラビンと、パレスチナ解放機構
(PLO)の議長アラファト
が調印した協定
イスラエルが占領地におけるパレスチナ人の暫定自治政府を承認
1995年、イスラエルの首相ラビンがユダヤ教急進派に暗殺され、和平への道が再び閉ざされました。
イランとイラクの争い
イランの変化
1979年、
イラン革命
イスラームのシーア派の
ホメイニ
を指導者として、国王パフレヴィー2世の近代化路線に反対した革命
ホメイニを指導者とするイラン=イスラーム共和国が成立
以降、イランはイスラームを国家原理とし、欧米諸国に強硬な態度をとりました。
特にパフレヴィー2世を支持してきたアメリカと対立を強めました。
イラクの新政権
1968年以来、イラクでは社会主義を掲げるバース党が政権を担当しました。
1979年、サダム=フセインがバース党の指導権を握り、大統領に就任しました。
1980~88年、
イラン=イラク戦争
イラン革命の混乱に乗じてイラクがイランに侵入して開戦
イランと対立していたアメリカがイラクを支援したことで、後にイラクが軍事大国化
1991年、
湾岸戦争
1990年、イラクがクウェート
に侵攻したことに、国際連合が武力制裁を決定
決定を根拠にアメリカ(アメリカ大統領ブッシュ
在任中)などの多国籍軍が派遣され
、イラクがクウェートから撤退して停戦
アフリカの内戦
「ローズの国」から黒人多数支配の国へ
19世紀末、イギリスの植民地となったローデシア
の地名は、植民地の拡張を推進したセシル=ローズの名に由来します。
1965年、ローデシアは白人少数支配の下でイギリスから独立しました。
1980年、白人少数政権が倒された後、黒人多数支配のジンバブエ
が成立しました。
人種差別の撤廃
1961年、イギリス連邦から独立した南アフリカでは、白人支配を維持するために、多数派の黒人を差別する人種隔離政策アパルトヘイト
が採用されました。
マンデラ
がアフリカ民族会議(ANC)を指導し、反アパルトヘイト運動を続けました。
1991年、南アフリカ大統領デクラーク
がアパルトヘイト
の終結を宣言しました。
1994年、全人種による平等な選挙がおこなわれ、アパルトヘイトが完全に廃止されました。
1994年、マンデラ
が南アフリカの黒人初の大統領に就任しました。
内戦
「アフリカの年」と呼ばれた1960年以降、アフリカでは次のような内戦が勃発しました。
上記のような内戦は、植民地時代に引かれた人為的な国境による民族分断、貧困・飢餓、資源配分の争いが要因にあげられます。