概要
中国大陸では、古くから畑作・稲作など様々な形態の農耕が発達していました。このような農耕地帯のなかで巨大な王朝が成立し、絶えず周辺地域に影響を与えてきました。この長い歴史は、黄河・長江流域に発生した中国古代文明にさかのぼります。
中国文明の発生
文明を生み出した2大河川
中国大陸では、次の2つの河川が文明を生み出しました。
黄河と長江
中国文明の発生
集落の形成と土器の使用
前5千年頃、数百人規模の集落が形成されていきました。
黄河中流域には、彩文土器(彩陶
)を特色とする仰韶文化が形成されました。
前3千年、黒色磨研土器の黒陶
を特色とする竜山文化が形成されました。
集落は互いに交流・争いを繰り返し、それぞれの地域で政治的統合をしていきました。
彩陶・黒陶
王朝の形成と支配
初期王朝「殷」の形成
中国で現在確認できる最古の王朝は、前16世紀頃におこった殷
です。
夏
中国最古の伝説上の王朝で、暴君の時に殷によって滅亡
この王朝については、その遺跡である殷墟の発掘で次のような実態が分かりました。
- 王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成立
- 漢字のもとである甲骨文字を占いの記録に使用
- 祭祀・儀式で使う酒器や食器に青銅器を使用
殷墟
漢方薬の原料からの大発見―甲骨文字
かつて中国では、農民たちの耕作中に記号のような模様が刻まれた甲羅や骨のかけらが出てきました。そのたびに農民たちは漢方薬の原料として薬屋に売っていました。1899年、王懿栄
・劉鶚
は購入した漢方薬に散見する模様を文字だと推測して研究しました。研究された文字は甲骨文字と呼ばれ、殷王朝のものと判明しました。殷王朝では、亀の甲羅や牛の骨を焼き、入ったひびの形で神の意志を問う占いをし、結果をひびのそばに刻んでいたのです。
「周」の支配
前11世紀、周(西周)が殷の西側におこり、はじめ殷に服属しました。
やがて周は殷を滅ぼし、渭水流域の鎬京に都を定めて、華北を支配しました。
周の王は、一族や功労のあった臣下、各地の以前からの長に封土(領地)を与えて諸侯とし、その地を代々統治させました。
そして、諸侯は卿・大夫・士などの臣下に、自らの封土を分け与えました。
このように上の者が封土が下に分与し、統治をまかせる仕組みを封建制と呼びます。
封土が代々継承されるため、家柄が重視され、同姓の父系一族宗族
を強く意識し、宗法を定めて結束を図りました。
封建制
中国とヨーロッパのもので異なり、ヨーロッパでは個人的な契約に基づく主従関係