群雄割拠と初の中国統一

概要
前221年、秦が広大な中国を初めて統一しました。その後わずか15年で滅びましたが、後の中国で使われていく「皇帝」の称号を使い始めるなど、その影響は大変大きいものです。今日中国をChinaと言うのも、シン から来ているとされます。
表記について

春秋・戦国時代

周の衰退

前8世紀、周は周辺民族に首都を攻略され、都を東方の洛邑らくゆうに移しました。
これにより、以前の周を西周、以後の周を東周と区別します。
以後、東周の勢力は衰えていきます。
周が東周となった前8世紀から前5世紀までを 春秋時代 、以後の前3世紀までを 戦国時代 と呼びます。
春秋時代には、各地の諸侯は東周の王の権威を利用し、他の諸侯より優位に立とうと争いました。
戦国時代には、各地の諸侯は自らを王と自称し互いに争いました。

春秋・戦国時代

春秋時代

前8世紀から前5世紀、東周の諸侯のなかに、王の権威を利用して他の諸侯より優位に立とうとする者が現れました。
このような有力諸侯を 覇者 と呼びます。

戦国時代

前5世紀、諸侯は東周の王を無視し、自らを王と称して国を建てていきました。
小国は次々と併合され、やがて7つの強国 戦国の七雄しちゆう  がならび立ちました。
七雄の中でも、西方の しん  商鞅しょうおう を登用し、彼による改革 商鞅の変法(改革) で富国強兵を進めました。
戦国の七雄
戦国の七雄

社会変動

春秋・戦国時代には、次のような社会変動が生じました。

青銅の貨幣(刀銭・布銭・半両銭)
諸子百家の学派
 儒家じゅか 
 墨家ぼっか 
 墨子 を祖とし、家族を超えた博愛主義(兼愛)を主張し、また、戦争の非人間性を批判
 道家どうか 
老子・荘子が知られ、あるがままの状態に逆らわない無為自然を主張
 法家ほうか 
強大な権力をもつ王が法と策略により国家の統治をすべきと主張
戦国の七雄の1国 秦 で擁護され、行政官の最高位に登りつめた 李斯りし や富国強兵策で知られる 商鞅しょうおう が活躍
書物
 楚辞 
 屈原 が自作の詩を中心に楚の詩を集めたもの
 詩経 
中国最古の詩歌集で、黄河流域を中心とする地域の詩歌を集めたもの
儒教の経典である五経の1つ
 春秋 
孔子が編纂した魯国の年代記で、儒教の経典である五経の1つ
五経
『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』

初の中国統一

秦の台頭

前4世紀、戦国の七雄の1つ 秦 は、 商鞅 を登用して改革を進め、国力をつけました。
前221年、秦は中国を統一しました。
秦の王は、「王」の上位である「皇帝」という称号を考案し、 始皇帝 と称しました。

秦の政策

中国全土をまとめるため、秦は統一事業や異民族対策をおこないました。

中央集権

 封建制 を廃止し、中央から派遣した役人に各地の統治をまかせる 郡県制 を採用しました。

ものの統一

各地で異なっていた文字・度量衡どりょうこう(長さや重さなどの単位)・貨幣を統一しました。

思想の統一

儒家などの書物を禁書として廃棄したり、始皇帝に批判的な学者を生き埋めにしたりする 焚書ふんしょ   坑儒こうじゅ を強行しました。

騎馬遊牧民への対抗

北方の騎馬遊牧民 匈奴きょうど の侵入に対抗し、戦国時代以来の 長城 を修築しました。

秦代の長城

急速な滅亡

統一政策・長城の土木工事の負担は民衆を苦しめました。
始皇帝の死後、農民の反乱 陳勝・呉広の乱 が起き、秦は統一後15年で滅びました。
 兵馬俑 
始皇帝の陵墓で発見された、兵士や騎馬をかたどった人形
反乱勢力のなかで、庶民出身の 劉邦 と楚の名門出身の 項羽 が力をのばしました。
激闘の末、劉邦が中国を統一して皇帝 高祖 となり、 漢  前漢 )を建国しました。