概要
前3世紀に建国した漢は、秦が皇帝への権力一極集中で失敗したことを踏まえ、中央集権と地方分権の両立を図りました。漢は対外戦争を起こして勢力を広げますが、皇帝の側近や親族の権力争いが増え、反乱を招きました。
漢の政治
秦の失敗の教訓
前3世紀、劉邦は項羽との争いに勝ち、中国を統一して皇帝の位につきました。
皇帝となった劉邦は、高祖と呼ばれ、漢(前漢)を建国しました。
漢の都長安は、現在の西安に建設されました。
高祖は、秦の制度を継承する一方で、その失敗を教訓にした制度も作りました。
2つの制度の併用
郡県制と封建制を併用する郡国制を採用しました。
諸侯への抑圧
前154年、
呉楚七国の乱
諸侯が封地削減に抵抗して起こした反乱
鎮圧され、漢の皇帝による抑圧は一層強化
武帝の時代
前2世紀後半の漢の皇帝武帝は、数多くの対外戦争をおこないました。
前漢の領域(武帝即位時)と最大領域
対外戦争
北方
北方の騎馬遊牧民匈奴と争いました。
匈奴を倒すために、西方の大月氏
と同盟を結ぼうとし、張騫を西域
に派遣しました。
朝鮮西北部
衛氏朝鮮を滅ぼして、朝鮮北部に楽浪郡などの4つの直轄地を置きました。
南方
南越を滅ぼしてベトナム北部までを支配下におきました。
その他政策
儒学の官学化
董仲舒の意見をうけ、儒学を国家の正統な学問(官学)とし、また、その教育をおこなう官職の五経博士の設置を決めました。
専売制
鉄・塩・酒の専売をおこないました。
財政難対策
流通の調整と物価の安定をはかる均輸・平準を実施しました。
皇帝への権力集中
武帝は皇帝に権力を集中させました。
結果、武帝の死後には、皇帝の側近である宦官や皇后の親族外戚が権力を握るために争いました。
宦官
後宮(皇帝が住む宮殿)の女性と関係をもたないように去勢された男性
漢の滅亡と復興
漢の滅亡と復興
漢の武帝の死後、宦官や外戚が権力をめぐって争いました。
紀元1世紀初頭、外戚の王莽
が漢の皇帝を追い出し、新を建国しました。
王莽は、儒教の理想である周の時代の制度を復活しようと急激な改革をおこないました。
18~27年、
赤眉の乱
新に反発した農民たちが起こした反乱
混乱のなか、漢の一族出身の劉秀
が、漢を復興して後漢を建国し、皇帝光武帝となりました。
光武帝は都を洛陽に定めました。
後漢の領域
後漢の問題
後漢では、官僚となる者に豪族出身者が多く、また、宦官が権力を振るいました。
後漢の地方支配は前漢に比べて後退し、地方の豪族の台頭がみられました。
結果、豪族勢力と宦官の対立が深まり、宦官が豪族出身者を禁固する党錮の禁などの混乱が起きました。
党錮の禁
豪族出身者の官僚は儒学を学んでおり、党人と呼ばれたことに由来
184年、
黄巾の乱
宗教結社太平道の指導者張角が起こした反乱
220年、後漢は滅びました。
中国の王朝交替-五行説
五行説は、万物の根源を「木」「火」「土」「金」「水」の5要素とし、それらの関係、消長によって、宇宙が変化するという考えです。5要素には生成順序があり、この考えにのっとって中国の王朝交替が説明されました。つまり、火(赤色)である漢にかわって土(黄色)の王朝が起こると考え、太平道は黄色の布を標識としたのです。
五行説
漢と世界
豪族の大土地所有と台頭
漢の時代、多くの農民が飢饉や税のために土地を売って没落しました。
豪族は、その土地を買い集めて大土地所有者となり、没落した農民を奴隷や小作人として使役しました。
画像磚(*豪族の大土地所有の様子)
漢の時代、地方長官の推薦で官吏に登用する方法郷挙里選
が採用されました。
後漢の時代、豪族が官僚として国の政治に進出するようになりました。
儒学の官学化
漢の時代、武帝は董仲舒の意見をうけ、儒学を国家の正統な学問(官学)とし、また、その教育をおこなう官職の五経博士の設置を決めました。
また、儒学の経典として五経が定められました。
後漢の時代、鄭玄は五経を正しく理解するために字句の解釈に努める学問訓詁学
を大成しました。
書物の作成
後漢の時代には蔡倫によって製紙法が改良されました。
紙が次第に普及し、歴史書などの書物が作成されました。
漢の時代の歴史書
前漢
『
史記』
司馬遷が、太古の黄帝の時代から自身の生きる前漢の武帝の時代までを紀伝体で記述した歴史書
紀伝体
年月順に記す編年体と異なり、個性ある人物の活躍を通して歴史の展開を書く方法
後漢
『
漢書』
班固が、前漢の高祖から王莽の滅亡までを紀伝体で記述した暦書
大国の情報
前漢の時代には張騫
が西域に派遣され、また、後漢の時代には班超が西域都護となって西域経営に努めました。
西方の情報が中国に伝わり、ローマ帝国(大秦)の存在も知られるようになりました。
班超の部下であった甘英が、ローマ帝国(大秦)に派遣されましたが、途中帰国しました。
マルクス=アウレリウス=アントニヌスと思われるローマ皇帝の名も、「大秦国王安敦
」という名で中国に知られました。
後漢の時代、大秦国王安敦の使者と称する者が、現ベトナム中部に位置する日南郡を訪れました。
日本列島との交流
当時倭人と呼ばれた日本人が、中国の皇帝の権威を借りるために定期的に使者を送ってきました。
後漢の光武帝は、倭人の使者に対して「漢委奴国王」と刻まれた金印を授けました。
「漢委奴国王」の文字-金印
後漢の歴史を記す『後漢書』東夷伝には、「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人みずから大夫と称す。倭国の極南界也。光武賜るに印綬を以てす」という記述があります。江戸時代、福岡県志賀島からこの記述に出てくる金印が発見されました。金印には「漢委奴国王」の字が刻まれています。倭人の歴史を知る重要な資料ですが、字の解釈をはじめ、そもそも偽物ではないかと議論が続いています。
金印