概要
非アラブ人を差別するウマイヤ朝の政策は、『コーラン』の教えに背くと次第に批判されました。かわりに成立したアッバース朝は、首都バグダードを中心に発展し、ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました。しかし、彼の死後には徐々に力を失い、アッバース朝の君主以外にもカリフを自称する君主が現れました。
新たな王朝の形成
ウマイヤ朝とコーランの教え
『コーラン』は、全ての信者が平等だと説きます。
しかし、ウマイヤ朝の征服地では、非アラブ人はイスラームに改宗しても差別されました。
ウマイヤ朝の在り方は『コーラン』に背くという批判が出てきました。
新たな王朝
ウマイヤ朝を批判する人々は、ムハンマドの叔父の子孫アッバース家の挙兵に参加しました。
750年、ウマイヤ朝は滅び、新たにアッバース朝が開かれました。
アッバース朝は、ティグリス川の河畔に、
円状の首都バクダードを造営しました。
アッバース朝の政策
アラブ人と非アラブ人
イスラーム教徒であれば、非アラブ人であっても人頭税(ジズヤ)は課せられませんでした。
また、征服地に土地をもつ場合には、アラブ人にも
地租(ハラージュ)が課せられました。
つまりアッバース朝では、アラブ人と非アラブ人との差別は、イスラーム教徒である限り廃止されました
。
政治
アッバース朝のカリフの政治は、イスラーム法(シャリーア)に基づき、実施されました。
イスラーム法
『コーラン』や預言者の伝承をもとに9世紀頃までに整えられた、生活の規範や政治の基本を示す法
知恵の館
アッバース朝の時代、「知恵の館」において多くのギリシア語文献がアラビア語に翻訳されました
。
奴隷身分出身の兵士
中央アジアの遊牧民トルコ人は、幼い頃から乗馬に親しみ、騎射に優れていました。
アッバース朝が中央アジアに進出すると、トルコ人は奴隷としてイスラーム世界に流入しました。
アッバース朝のカリフは、トルコ人の力を認め、奴隷身分出身の兵士マムルーク
として用いました。
アッバース朝の最盛期とその後の衰退
アッバース朝は、5代目カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました
。
ハールーン=アッラシードの死後、アッバース朝の領域から独立する王朝が現れました。
さらに、アッバース朝以外にもカリフの称号を用いる王朝が現れました。
具体的には、後述するファーティマ朝・後ウマイヤ朝の君主が使用し、同時代に3人のカリフが分立する状態となりました。
軍事政権への移行
946年、ブワイフ家がバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから、軍司令官(アミール)のなかの第一人者を意味する大アミールに任じられました。
さらに、アッバース朝のカリフにかわってイスラーム法を施行する権限を与えられました。
アッバース朝のカリフは名目上存在するものの、実際の政権を担うブワイフ朝が成立しました。
ブワイフ朝は、俸給の代わりに部下の軍人に土地を分与し、土地の管理と徴税の権利を与えました。
ブワイフ朝が創始したこの制度をイクター制
と呼びます。
他の王朝の成立と3人のカリフ
シーア派の王朝
10世紀初め、シーア派の
一派が、ファーティマ朝を北アフリカに
開きました。
969年、エジプトを征服し、ナイル川東岸に首都カイロ
を造営しました。
ファーティマ朝の君主は、アッバース朝に対抗してカリフの称号を用いました
。
ファーティマ朝の時代、首都カイロにアズハル学院
が設けられ、イスラームの学問の中心となりました。
アズハル学院
イスラームの学者ウラマーを養成する教育機関マドラサの代表例
ウマイヤ朝の後継
750年、ウマイヤ朝が滅亡すると、ウマイヤ家の一族がイベリア半島に逃れました。
756年、イベリア半島に後ウマイヤ朝を開き、同半島のコルドバを首都としました。
後ウマイヤ朝の君主も、ファーティマ朝に対抗してカリフの称号を用いました。
この時点で同時代に3人のカリフが並び立つ状態
その他王朝
時代が前後しますが、次の2つの王朝なども存在しました。