概要
イスラームが中央アジアに及ぶにつれて、非アラブ人によるイスラーム王朝の成立が目立つようになりました。トルコ系のセルジューク朝やモンゴル系のイル=ハン国がその代表例です。セルジューク朝のもとでは、後にトルコ系のイスラーム王朝で用いられていく「スルタン」の称号が使用され始めます。カリフとスルタンの関係は、日本史の天皇と将軍の関係と対比すると理解しやすいです。
トルコ人の王朝
セルジューク朝
スルタンの地位
11世紀初め、トルコ人トゥグリル=ベクが、トルコ人によるイスラームの王朝セルジューク朝を建国し、中央アジアから西方に進出しました。
1055年、トゥグリル=ベクはバグダードに入城し、ブワイフ朝を倒しました。
トゥグリル=ベクは、一方でアッバース朝のカリフを宗教的権威として存続させ、他方でアッバース王朝の
カリフからイスラーム法の執行権をもつ支配者スルタン
と認められました。
アッバース朝およびそのカリフは、スルタンの権力を認めるためだけに存在
奴隷身分出身の兵士
セルジューク朝は、同族で奴隷身分出身のトルコ人兵士
マムルークを用いました。
ファーティマ朝への対抗
セルジューク朝はイスラームのスンナ派であり、シーア派のファーティマ朝に対抗しました。
対抗の一環として、イスラーム教の法学や神学を学ぶ教育機関マドラサ
を設けました。
セルジューク朝が建てたマドラサの代表例は、ニザーミーヤ学院です。
ファーティマ朝が建てたマドラサの代表例であるアズハル学院と区別
十字軍派遣の原因
セルジューク朝はさらに西方に進出し、ビザンツ帝国を圧迫しました。
これは後にキリスト教国が十字軍を派遣する原因となりました。
その他トルコ人の王朝
カラハン朝
10世紀、トルコ人による最初のイスラームの王朝カラハン朝が、中央アジアに成立しました。
ガズナ朝
10世紀、トルコ人によるイスラームの王朝ガズナ朝
が、アフガニスタンに成立しました。
ガズナ朝は北インドへの侵入を繰り返し、北インドのイスラーム化のきっかけをつくりました。
モンゴル人の国
イル=ハン国の建国
1258年、モンゴル軍を率いたフラグが西アジアに進出し、アッバース朝の首都バグダードを陥れました。
ここにアッバース朝は滅亡しました。
フラグはイラン・イラクを領有し、イル=ハン国
を開きました。
イラン=イスラーム文化
イル=ハン国7代目ハンのガザン=ハン
の治世に、イスラームをイル=ハン国の国教に定めました。
イル=ハン国の支配のもとでイラン=イスラーム文化が成熟しました。
ガザン=ハンの命令をうけ
、イル=ハン国の宰相ラシード=アッディーンが、ペルシア語でユーラシア世界史『集史』を著しました。
イラン=イスラーム文化
イラン文化とイスラーム文化が融合した文化
イスラームの国家と経済
貨幣経済の発達
西アジアの貨幣経済は、イスラームのもとで一段と発達しました。
俸給の変化
イスラームの王朝では、当初租税を徴収し、官僚・軍人に現金の俸給を支払っていました。
9世紀後半、カリフの権力が弱まると、この体制を維持することが難しくなりました。
946年にバグダードを占領したブワイフ朝
は、軍人に土地の徴税権を与え
、彼らに農民から徴税させることにしました。
ブワイフ朝が初めて実施したこの制度を
イクター制
と言います。
イクター制は、西アジアのセルジューク朝やイル=ハン国、後のエジプトで成立したアイユーブ朝やマムルーク朝
で採用されました。
商業活動の活発化
アイユーブ朝やマムルーク朝時代、カーリミー商人と呼ばれるムスリム商人が、カイロを拠点に、東西交易で活躍しました。
ムスリム商人は、香辛料などのアジアの物産を、エジプトのアレクサンドリアなど東地中海沿岸諸港まで運び、イタリア商人に売却しました。
他地域のムスリム商人は、隊商宿(キャラヴァンサライ
)を整備し、オアシス都市を結びました。
また、三角帆の木造船ダウ船を用いて「海の道」にも進出し、中国・東南アジアへのイスラーム布教にも貢献しました。
ジャンク船
中国商人が用いた三本マスト・角形帆の木造船
ダウ船