イスラーム世界の発展

表記について
概要
聖地イェルサレムをめぐり、イスラーム王朝とキリスト教国の対立は続けられました。一時はキリスト教国が聖地の回復に成功しましたが、イスラームの英雄であるサラディンに奪回されてしまいます。一方、イベリア半島においては、かねてから目指されていたレコンキスタをスペイン王国が成功させ、イベリア半島からイスラーム勢力を追い出しました。このように2つの宗教勢力は一進一退を繰り返しました。

カイロの繁栄

アイユーブ朝-実質的な王朝

1169年、クルド人のサラディンサラーフ=アッディーン)は、エジプトにあったファーティマ朝の宰相に就任しました。
ファーティマ朝のカリフにはすでに実権がなく、サラディンが実質的な君主でした。
これを王朝の交代と考え、ファーティマ朝が滅び 、サラディンがアイユーブ朝 を樹立したと扱います。
アイユーブ朝の君主はカリフを名乗らず、あくまでスルタンとして活躍

キリスト教国との衝突

1187年、サラディンは十字軍から聖地イェルサレムを奪回しました。
第3回十字軍が派遣されましたが、目的を果たせず、サラディンとの間に講和が成立しました。

奴隷身分出身の兵士

アイユーブ朝も、トルコ人の奴隷を購入し、奴隷軍人マムルーク として用いました。
アイユーブ朝のもと、マムルークが勢力を拡大させました。
サラディン―イスラームの英雄
サラディンは、キリスト教国の十字軍との50年以上にわたる覇権争いに終止符をうち、聖地イェルサレムを奪回した英雄として知られています。第3回十字軍とも戦い、ヨーロッパの文芸作品にも取り上げられています。敵側でありながら、ヨーロッパでは「アラブ騎士道の体現者」や「慈悲深い高潔な人物」として描かれています。ダンテの『神曲』にも登場し、ムハンマドや歴代カリフの描かれ方と比べると、サラディンに対する破格の扱いがよく分かります。
サラディン

マムルークの王朝

1250年、強大となったマムルークのクーデタで、アイユーブ朝 が倒されました。
エジプトのカイロ を首都に、マムルーク朝が開かれました。
マムルーク朝 のマムルーク軍が、モンゴル軍を撃退しました。
また、カリフの復活、メッカ・メディナの保護に努め、イスラーム国家として権威を高めました。

首都カイロの位置づけ

カイロは、次の王朝の首都でした。
ファーティマ朝のもとでは、アズハル学院が設けられ、スンナ派イスラームの信仰と学問の中心的役割を果たしました。
そしてアイユーブ朝以降、バグダードにかわるイスラーム世界の中心地として繁栄しました。

西方のイスラームの情勢変化

北アフリカのイスラーム化

11世紀半ば、北アフリカの先住民ベルベル人が、イスラームへと改宗していきました。
12世紀 、ベルベル人は、黒人の王国ガーナ王国 を滅ぼしたムラービト朝 、そしてその王朝を滅ぼしたムワッヒド朝 などの王朝を開きました。
上記2つの王朝は、ともにマラケシュ を首都に定め、後ウマイヤ朝滅亡後のイベリア半島に進出しました。

征服・被征服の整理

覚えにくい次の征服・被征服の関係を整理しましょう。

レコンキスタへの敗北

8世紀以降、キリスト教徒は、イスラームの支配下に置かれたイベリア半島を奪回する運動国土回復運動レコンキスタ)を起こしました。
1031年に後ウマイヤ朝が滅亡して以来、イベリア半島には中小のイスラーム勢力が分立しました。
これを機にキリスト教徒による国土回復運動が活発化し、一方で、新たなイスラーム勢力としてムラービト朝が、次いでムワッヒド朝がイベリア半島に侵入しました。
イベリア 半島最後のイスラーム王朝は、13世紀に成立し、グラナダを首都とするナスル朝 でした。
ナスル朝がグラナダ に建てたアルハンブラ宮殿 は、イベリア半島の代表的なイスラーム建築です。
15 世紀末、ナスル朝のグラナダはスペイン王国に陥落させられ、イスラームによるイベリア半島の支配が終わりました。
アルハンブラ宮殿
アルハンブラ宮殿