封建制と教皇権の衰退

概要
貨幣経済の浸透と人口の現状は、封建領主を農奴解放へと動かしました。自営農民が増えていく一方で、騎士階級の領主は領地を没収されたり、戦術の変化で役割を失ったりしました。
表記について

封建制の衰退

農奴解放の動き

背景①-貨幣経済の浸透

封建制では、領主は所有地(荘園)に住む農民を使役し、生産物などを納めさせました。
この頃の農民は、移動などの自由がない「農奴」と言える状態でした。復習
荘園制
荘園制
14世紀、貨幣経済が浸透すると、領主は地代として貨幣を納めさせました。
農民は市場で生産物を売り、地代を納めた残りの貨幣を貯えました。
農民のなかには、貯えた経済力で自由を得る者もいました。
貨幣経済浸透後の荘園制
貨幣経済浸透後の荘園制

背景②-人口の減少

14世紀 、気候の寒冷化、凶作・飢饉、 黒死病   ペスト )の大流行で人口が減少しました。
黒死病
一説によれば、この疫病で全ヨーロッパの人口の約3分の1が減少
ペスト犠牲者の棺桶を運ぶ村人
ペスト犠牲者の棺桶を運ぶ村人
農業人口が減り、領主は荘園の労働力確保を迫られました。
領主は、農民の身分的自由を認めて待遇を向上させ、労働力を確保しました。
黒死病(ペスト)の流行の結果、農民の地位が向上しました

自営農民への成長

農民たちは、領主の身分的束縛から解放された「独立自営農民」に成長しました。
イギリスの独立自営農民は、 ヨーマン  と呼ばれました。
領主が再び農民を身分的に束縛しようとすると、農民は次のような農民一揆を起こしました。

領主の困窮と騎士の没落

商工業の発展のなか、固定された地代に頼る領主は困窮しました。
なかでも騎士階級であった領主は、国王や諸侯から領地を没収されることもありました。
14~15世紀、騎士は火砲の使用が広まったことで没落しました

教皇権の衰退

教皇とフランス国王の対立

十字軍の失敗と各国の王権(王の権力)の強化は、教皇権(教皇の権力)を失わせていきました。
13世紀末、ローマ教皇 ボニファティウス8世  は、教皇権の絶対性を主張し、聖職者課税問題をめぐって フランス国王 フィリップ4世 と争いました。
聖職者課税問題
フランドル地方をめぐってイギリス(イングランド)と争うフランスが、戦費捻出のために教会財産へ課税したこと
1303年、 アナーニ事件 
ローマ教皇 ボニファティウス8世  がフランス国王 フィリップ4世  に捕らえられ、屈辱で乱心・憤死した事件

教会の分裂

アナーニ事件後、ローマ教皇庁は南フランスの アヴィニョン  に移されました。
1309~77年の約70年間、教皇はフランス王の支配下におかれました。
このことを、古代のバビロン捕囚に例えて「教皇のバビロン捕囚」と言います。
アビニョン
アビニョン
「教皇のバビロン捕囚」が終わって教皇がローマに戻った後、ローマ教皇とは別の教皇と教皇庁がアヴィニョンに現れる事態が生じました。
ローマ教皇とアヴィニョンの教皇は、互いに正統性を主張して対立しました。
14~15世紀のこの対立を 教会大分裂   大シスマ )と言い、教皇権を大きく揺るがしました。
教会大分裂は、教会や教皇の在り方に対する批判を生みました。
これに対して教会は、異端審問や魔女裁判によって批判する者を罰しました。

教会堕落への糾弾

14世紀後半、イギリスの  ウィクリフ  は、聖書こそ信仰の最高権威で、教会がその教えから離れていると教会改革を主張しました。
また、ウィクリフは聖書を英訳して自説の普及に努めました。
ボヘミア(ベーメン)の フス  は、ウィクリフを支持し、教皇からの破門にもひるまずに教会を批判しました。
1414~18年、 コンスタンツ公会議 
宗教界の混乱を収拾するため、神聖ローマ帝国皇帝の提唱で開かれた会議
ウィクリフとフスを異端と宣告し、フスを火刑にて処罰
ローマ教皇を正統と認めて教会大分裂(大シスマ)を終結
すでに死んでいたウィクリフは、遺体を掘り起こされ、著書とともに火刑
1429~36年、 フス戦争 
教皇権を批判するフス派が ボヘミア   ベーメン )で起こした反乱
フス戦争はコンスタンツ公会議でフスが処刑された後に開始
教皇権の衰退は止まらず、また、キリスト教の改革運動は続きました。