モンゴル帝国の拡大と影響

表記について
概要
13世紀初頭にチンギス=ハンが建国したモンゴル帝国は、破竹の勢いで勢力を拡大し、ユーラシア大陸の東西を支配していきました。モンゴル帝国は、極東や東南アジアにも勢力を広げようと、日本などに遠征しました。また、交通路を整備したため、東西交流が盛んにおこなわれました。ヨーロッパ諸国からは、恐れられる一方で、イスラーム勢力を打倒できると期待され、使者が派遣されました。
目次
  1. モンゴル帝国
    1. モンゴル帝国の建国
    2. 領域の拡大
    3. チンギス=ハンの子孫の地方政権
  2. モンゴル帝国-フビライ=ハンの治世
    1. 元の成立
    2. 元の遠征
    3. 元の中国統治
    4. 元の交易
    5. 貨幣
    6. 文字
    7. 文化
    8. モンゴル帝国の解体
  3. モンゴル帝国の東西交流
    1. 東方への関心
    2. イスラーム化
    3. キリスト教の布教
    4. モンゴル帝国内の文化交流

モンゴル帝国

モンゴル帝国の建国

12世紀、遼が滅亡すると、モンゴル高原では分裂の動きが一時期強まりました。
モンゴル部族出身のテムジンは、諸部族を支配下に収め、1206年、遊牧民の集会クリルタイ で遊牧民の君主を意味するハン の位につきました。
ハンの位についたテムジンは、チンギス=ハンと号し、モンゴル帝国 (大モンゴル国)を建てました。
クリルタイ
モンゴル帝国のハンは、この集会で選出される仕組み
ハン
便宜上、以降の内容では皇帝を指す意味で「大ハン」、その他王族を指す意味で「ハン」を使用
チンギス=ハン
チンギス=ハン
クリルタイ
クリルタイで即位するテムジン(チンギス=ハン)

領域の拡大

チンギス=ハン

チンギス=ハンは、全遊牧民を1000戸単位に編成した軍事・行政組織千戸制 を創始しました。
チンギス=ハンは、中央アジアのナイマンやホラズム朝 ホラズム=シャー朝)を滅ぼし、西北インドに侵入しました。
モンゴル帝室の系譜
モンゴル帝室の系譜

オゴタイ

チンギス=ハンの死後、子オゴタイは兄弟・一族たちとの争いに勝利し、1229年、大ハンの位につきました。
オゴタイは、金を滅ぼして華北を領有し、また、モンゴル高原のカラコルム に都を建設しました。

バトゥ

13世紀、チンギス=ハンの孫バトゥ が、ロシア を征服しました 。
さらにバトゥはヨーロッパに侵入しました。
1241年、ワールシュタットの戦い
バトゥがドイツ・ポーランド連合軍を破り、ヨーロッパ諸国を脅かした戦い

フラグ

1258年、チンギス=ハンの孫フラグ は、バグダードを攻略し、アッバース朝 を滅ぼしました。

チンギス=ハンの子孫の地方政権

13世紀半ばまでに広がったモンゴルの支配領域に、チンギス=ハンの子孫たちが、次の地方政権をつくりました。
モンゴル帝国は、これら地方政権が、大ハンのもとに連合するという形をとりました。
しかし、大ハンの位をめぐる争いも時に生じました。
1266~1701年、ハイドゥの乱
ハイドゥが、モンゴル帝国でフビライ=ハンの大ハン即位に反対して起こした反乱
モンゴル帝国の図解
モンゴル帝国の図解

モンゴル帝国-フビライ=ハンの治世

元の成立

1260年、フビライ が第5代の大ハンに即位し、都を現在の北京 である大都だいと に移しました。
1271年、フビライは国号を中国風の (大元ウルス)と定めました。
1276年、元は南宋を滅ぼし、中国全土を支配しました。
フビライ=ハン
フビライ=ハン

元の遠征

元はモンゴル高原と中国を領有し、また、チベット・高麗を属国としました。
元は交易圏拡大を目指し、パガン朝 が支配するビルマ(ミャンマー)に進出しました。
一方、ヴェトナム(大越)にも出兵しましたが、陳朝 により撃退されました。
他地域にも遠征軍を送りましたが、ジャワ・日本を属国にできませんでした
モンゴル軍との戦争後、ビルマではパガン朝が滅亡

元の中国統治

元の支配下では、モンゴル人 第一主義が採られ、次いで西域出身の色目人が重用され、漢人(中国人)が蔑視されました
これに伴い、科挙はほとんど重視・実施されず 、士大夫は官僚になる道を事実上閉ざされました。

元の交易

陸上交易

元は、幹線道路に沿って馬を乗り継ぐ駅を設ける、ジャムチ と呼ばれる駅伝制 を施行しました。
結果、東アジアからヨーロッパにいたる陸上交易が発達しました。

海上交易

中国の杭州・泉州などの港市が繁栄しました。

貨幣

貨幣として銅銭・金・銀が用いられました。
フビライ=ハンが交鈔こうしょう と呼ばれる紙幣を発行し、元の主要な通貨となりました。
銅銭
使用されなくなった銅銭が日本に流出し、その貨幣経済の発達を促進

文字

モンゴル帝国内では漢語からトルコ語・ラテン語まで様々な言語が用いられました。
フビライ=ハン の命令で、チベット仏教僧 パスパが公用文字パスパ文字 を作成し、元でのモンゴル語の表記に用いられました。
パスパ文字は後に廃れ、モンゴル語はウイグル文字で表記

文化

元曲

元代に完成した古典演劇(戯曲ぎきょく元曲 が、庶民に愛好されて盛んになりました。
元曲の代表作として、『西廂記せいそうき 』『琵琶記びわき 』などが作られました。

小説

水滸伝すいこでん 』などの大長編小説の原型が著されました。

モンゴル帝国の解体

14世紀、モンゴル帝国内で内紛が生じました。
チャガタイ=ハン国でティムールが勢力を伸ばし、イラン・イラクまで領土を広げました。
キプチャク=ハン国ではモスクワ大公国が勢力を伸ばしました
元の末期、宮中での権力闘争や経済政策の失敗が続き、各地で民衆が蜂起しました。
1351~66年、紅巾の乱
宗教結社白蓮教びゃくれんきょう を主体とした農民反乱
1368年、紅巾の乱の中から台頭した朱元璋しゅげんしょうが、明を建国しました。
同年、元は明軍に大都を奪われ、モンゴル高原まで退きました。

モンゴル帝国の東西交流

東方への関心

イスラーム勢力と争っていた西ヨーロッパで、東方でその勢力を抑えるモンゴル帝国に関心がもたれました。
また、1241年にモンゴル軍がポーランド・ドイツ連合軍を破ると、攻撃中止の交渉と敵情視察が必要になりました。

公的な訪問

ローマ教皇によってプラノ=カルピニ が、フランス王ルイ9世 によってルブルックが、モンゴル帝国に派遣されました。

商業的な訪問

ヴェネツィア の商人マルコ=ポーロが元の大都を訪れ、フビライ=ハンに仕えました。
マルコの見聞をまとめた『世界の記述 東方見聞録)』はヨーロッパで反響を呼びました。

イスラーム化

キプチャク=ハン国やイル=ハン国の君主は、イスラームに改宗し、イスラム教を保護しました
次第に中国本土でもイスラームが広がりました。
この動きとともにイスラームの学問・文化も流入しました。

天文学

中国の の時代に、フビライ=ハン の命で、郭守敬かくしゅけい イスラームの天文学の影響を受けて 授時暦 を作りました。
元代の授時暦は、江戸時代の日本の貞享暦の基礎となりました。

キリスト教の布教

初期のイル=ハン国は、キリスト教のネストリウス派を保護し、ヨーロッパ諸国やローマ教皇庁と交流しました。
13世紀末、モンテ=コルヴィノ がフビライの時代の大都(北京)を訪れ、カトリックの布教に努めました。

モンゴル帝国内の文化交流

元からイル=ハン国に伝わった中国絵画が、細密画(ミニアチュール)に影響を与えました