概要
明が成立した頃、東シナ海では海賊集団「倭寇」が沿岸を襲撃していました。洪武帝は倭寇と国内勢力が結びつくことを防ぐため、民間人が海に出ることを禁じる一方で、外国との朝貢貿易を盛んにおこない、朝貢国を増やすために宦官の鄭和を東南アジアからインド洋沿岸地域まで遠征させました。
14世紀の東アジア
明の建国と中国統一
14世紀、東アジアでは飢饉が続き、元の支配力が衰退しました。
1351年、宗教結社の白蓮教が元に対して紅巾の乱を起こし、教徒以外の農民も反乱に加わりました。
1368年、反乱のなかで台頭した貧民出身の朱元璋は、皇帝洪武帝となり、明を建国しました。
明の洪武帝は、元をモンゴル高原に退け、南京
を都として中国を統一しました。
東シナ海の海賊
14世紀、日本が南北朝の動乱で混乱すると、日本人を中心とする
海賊倭寇
が活発に活動しました。
倭寇は、中国・朝鮮半島の沿岸各地で活動し、高麗などを苦しめました。
倭寇
倭寇の被害
朝鮮の建国
1392年、倭寇対策で功績をあげた李成桂
が、高麗
を滅ぼし、朝鮮
(李氏朝鮮)を建国しました。
明の政治
洪武帝の治世
皇帝の直接決定
洪武帝は、皇帝の詔勅を起草する中書省
を廃止しました。
代わりに中書省の管轄下にあった六部
を皇帝に直属させ、皇帝が万事を直接決定することにしました。
中書省
隋・唐の律令制以来の政治機構で、宋・元で形を変えて最高行政機関となり、長官は皇帝の権力を脅かす存在
民衆の統制
洪武帝は、民衆統制のために次のことを実施・作成しました。
- 里甲制
の実施
110戸を1里とし、裕福な10戸を里長戸、残り100戸を10戸ずつ10甲に分け、各甲に甲首戸を配置
1年交代で里長戸と甲首戸が、租税の徴収や治安維持を負担
- 租税台帳賦役黄冊
と土地台帳魚鱗図冊
の作成
租税台帳
- 六諭
の制定
民衆教化のための6ヵ条の教訓で、里甲制下の村落に普及させようとしたもの
官制・法制
朱子学を官学として科挙を整備しました。
また洪武帝は、唐の律令に倣って、明律
・明令を制定しました。
軍制
民衆の戸籍(民戸)と軍人の戸籍(軍戸)を分けてつくり、軍事組織として衛所制
を設けました。
海上交易
明は、民間人の海上交易(私貿易)を禁止する海禁政策を採り、朝貢貿易体制を維持しようとしました
。
これにより、外国人には朝貢貿易のみが認められました。
対モンゴル防衛
洪武帝は、息子たちを王として北方辺境に配置し、対モンゴル防衛にあたらせました。
洪武帝死後の争い
洪武帝の死後、建文帝が即位し、北方防衛にあたる諸王の勢力を削減しました。
1399~1402年、
靖難の役
北平(北京)を本拠に対モンゴル防衛にあたった洪武帝の子燕王が、建文帝に対して挙兵
勝利した燕王は、南京を占領し、永楽帝として即位
永楽帝の治世
遷都
永楽帝は、首都を南京から北京
に遷しました。
皇帝の補佐
永楽帝は、皇帝を補佐する内閣大学士
を設けました。
積極的な対外政策
対モンゴルの遠征
永楽帝は、自ら軍を率いてモンゴル高原に遠征しました
。
対ベトナム
永楽帝は、ベトナムに明軍を出兵し、一時支配しました
。
船団の派遣
1405~33年の間に計7回、イスラーム教徒の
宦官鄭和
を、インド洋からアフリカ大陸東海岸に遠征させ、諸国に朝貢を促しました。
鄭和の遠征艦隊の一部は、アフリカ東岸へ到達しました。
アフリカから来た「麒麟」
鄭和の遠征艦隊がアフリカから「キリン」を持ち帰り、永楽帝に献じました。その姿は中国の想像上の聖獣である「麒麟(体が鹿、尾が牛、額が狼、角が一本)」を彷彿させました。「麒麟」は皇帝が善政をおこなう場合に現れる獣(瑞獣)とされていて、永楽帝は大変喜びました。群臣も「麒麟」の出現をたたえる文を書いています。「麒麟」の献上はベンガル地方からもされており、他にも同じような出来事はあったようです。なお、宋代にベトナムから「サイ」が「麒麟」として皇帝に献上された時、司馬光はこれを「麒麟」と認めず、また、「もし麒麟であっても、異国から連れて来たものを善政の証とするべきではない」と諫めています。アフリカから来た「麒麟」は果たして瑞獣であったのでしょうか。
インドのベンガル地方から献上されたキリン
*『瑞応麒麟図』から
経典の解釈
永楽帝は、儒教経典の解釈の正しい基準を示す『四書大全
』『五経大全』が編纂されました。
また、古今の図書の内容を事項別に分類整理した『永楽大典
』もつくられました。
明と周辺国
明に服属した周辺国
琉球王国
15世紀初め、現在の沖縄は中山王
によって統一され、琉球王国が生まれました。
琉球王国は、明との間で朝貢貿易をおこないました
。
また、琉球王国は朝貢貿易で得た品々を用いて、東南アジアと貿易(中継貿易)をおこない栄えました
。
琉球王国が島津氏に征服された後も、中国への朝貢を継続
マラッカ王国
14世紀末、マラッカ王国がマレー半島南西部に成立しました。
鄭和の遠征で交易が活発化すると、ムスリム商人が多く訪れ、マラッカ王国の王はイスラームに改宗し、国教としました
。
マラッカ王国は、明との朝貢貿易を始め、海上交易で栄えました
。
朝鮮
朝鮮は明に服属し、朝貢貿易をおこないました。
明の影響を受け、朝鮮では朱子学を重要視して官学としました
。
これに伴い、朝鮮では科挙が実施されました
。
15世紀前半の世宗の時代に、新たに作った音標文字(表音文字)である訓民正音
(ハングル)の公布や金属活字による出版がおこなわれました。
日本
室町幕府3代将軍足利義満
は、明から「日本国王」に冊封され、倭寇鎮圧への協力を条件に、明との朝貢貿易を許されました。
この貿易は、使節と倭寇を区別するために勘合を用いたため、勘合貿易とも呼ばれます。
ベトナム
ベトナムの黎朝は、明への朝貢貿易をおこない、朱子学
を受容して支配を固めました。
後に黎朝は、明のベトナム支配を退けて自立しました
。
明を苦しめた遊牧民
オイラト
元は明軍にモンゴル高原に追われた後、北元を建国しました。
元の直系の子孫が絶えて北元が滅ぶと、モンゴル高原ではモンゴル系遊牧民の一派オイラトが勢力を伸ばしました。
15世紀半ば、オイラトの族長エセン=ハンがモンゴルを統一しました。
1449年、
土木の変
オイラトの族長エセン=ハン
が、明の皇帝の正統帝を捕縛
明はモンゴル諸部族を韃靼(タタール)、オイラトを瓦刺(ワラ)と呼称
明は防御に転じ、万里の長城を修築して北方からの侵略に備えました。