概要
17世紀、満州人の国家「清」が成立し、明にかわって中国を支配しました。清の前半期には有能な皇帝が続き、独裁的な権力をふるいました。明の制度の継承しつつも、独自の制度や民族の慣習を導入しました。
清の成立
女真人の国
10世紀以後、中国の東北地方(満州)に住むツングース
系の女真人
(女真族、満州人、満州族)は、遼の支配下で半農半猟生活を営みました。
1125年、女真人が建国した金は、遼を滅ぼしました。
金は華北を支配しましたが、後にモンゴル帝国に滅ぼされました。
以降、女真人は元・明の支配をうけました。
1616年、女真人のヌルハチが明の支配から脱して、後金を建国しました。
後金から清へ
ヌルハチの治世
太祖ヌルハチ
は、次のことを実施しました。
- 軍隊八旗
を創設し、女真人(満州人)・モンゴル人・漢人の部隊で
編制
- 満州
文字の制定
ホンタイジの治世
1635年、ヌルハチの子ホンタイジは、内モンゴルの一部族チャハル部
を服属させました。
1636年、ホンタイジは皇帝と称し、国号を清と改めました。
1636年、清は朝鮮を服属
明の滅亡
16世紀後半の明では、幼少の皇帝万暦帝を補佐する張居正
の下で、財政再建などの政治改革が進められました。
再建に成功した反動で財政が放漫になり、また、宦官による政治への介入が目立ちました。
官僚の一部は、政治の腐敗や宦官の横暴を批判する東林派
(東林党)というグループを作りました。
官僚は、東林派と非東林派に分かれて党争を展開し、政治の混乱を招きました。
東林派
江蘇省無錫の東林書院の関係者がいたことに由来
政治の混乱に反発した民衆は、各地で暴動を起こしました。
1644年、李自成
の農民反乱軍が北京を占領し、明は滅亡しました。
清の中国統一
順治帝の治世
明の滅亡後の1644年、順治帝の清軍が明の武将呉三桂
の協力を得て、北京に入城しました。
清は、北京に遷都し、中国全土へと支配を広げました。
雲南・広東・福建の支配は、清の中国平定に協力した呉三桂含む3人の明の武将(三藩)に委ねました。
北京入城以前に、内モンゴルのチャハル部や朝鮮を服属
三藩
雲南王(呉三桂)・広東王(尚可喜)・福建王(耿継茂)
康熙帝の治世
清の4代皇帝康熙帝
は、次の2つの抵抗を平定し、中国統一を完成させました。
清の領域拡大
17世紀末以降、清の支配領域は拡大しました。
康熙帝の治世
4代皇帝の康熙帝は、三藩の乱の平定、続いて鄭氏の征討で中国統一を完成しました。
さらに康熙帝
は、次の条約を結んで国境を画定したほか、他勢力を服属させました。
雍正帝の時代
5代皇帝雍正帝
は、次のことをしました。
乾隆帝の時代
1758年、6代皇帝乾隆帝は、ジュンガル部
を征服しました。
乾隆帝は、ジュンガル部・回部(ウイグル人イスラーム教徒)を平定し、東トルキスタンを「新疆
(新しい土地)」と呼びました
18世紀半ば、清の最大領域は、ほぼ今日の中国の領土の原型をつくりました。
清の制度・統治方法
清の皇帝
2つの面
清の皇帝は、次の2つの面をもちました。
- 中国歴代王朝の伝統を継ぐ皇帝
- モンゴル帝国のハンの伝統を継ぐ北方遊牧民の君主
清の前半は、有能な皇帝が続き、上記2つの面を兼ね備えて独裁的な権力をふるいました。
宮殿
北京の紫禁城は、清の皇帝の宮殿でした。
清の制度
清は、明の制度を継承する一方で、独自の制度も創設しました。
思想
清は科挙・儒学を振興し、中国王朝の伝統を守る姿勢を示しました。
文化面では、『康熙字典
』『四庫全書
』を編纂させ、学者を優遇しました。
一方で、禁書の設定や、反満州人・反清の文章を書いた者を処罰する文字の獄
をおこない、思想統制しました。
官制
雍正帝の時代に、軍事・行政上の最高機関軍機処が設置されました。
軍制
漢人で組織する
緑営
と、満州人・モンゴル人・漢人の
3軍で編制する八旗を、要地に駐屯させました。
風習
支配下の漢人男性に対して、満州人の風習である髪型辮髪(弁髪)を強制しました
。
辮髪の拒否は、清への反抗を意味しました。
宗教
白蓮教などの民間宗教は、邪教として弾圧されました。
統治方法
清は、直接統治・間接統治を組み合わせて領土を支配しました。
直轄領
中国内地・中国東北地方
・台湾を直轄領としました。
藩部
モンゴル
・チベット
・新疆・青海を藩部
(≠直轄領)としました。
清は理藩院
を設け、藩部を管理・監督させました。
藩部の実際の支配は、現地の支配者と清の派遣する監察官に任されました。
清は藩部の習慣・宗教にあまり干渉せず、支持を得ながらの支配を目指しました。
藩部の現地支配者
チベット:
黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマが現地の支配者
16~17世紀の東アジア
東アジアや東南アジアの諸国は、清の盛期に朝貢をおこない、清から属国として扱われました。
その一方で、諸国は内部で独特の国家意識を形成していきました。
朝鮮
16世紀以降の朝鮮では、両班
と呼ばれる支配階層が形成され、政治的実権を握っていました。
両班
文官(文班)・武官(武班)の官職に就いている者の総称
文官・武官を兼ねたことに由来するわけではない
両班は、党派に分かれて争うようになり、政治の混乱を招くこともありました
。
16世紀後半、日本の豊臣秀吉は、領土の拡大を目指しました。
1592~98年、文禄・慶長の役
豊臣秀吉による2度の侵略で
、朝鮮側は明
の援軍派遣や李舜臣
率いる朝鮮水軍の活躍で抵抗
朝鮮での名称は、壬申・丁酉倭乱
ホンタイジの時代、朝鮮は清に服属して朝貢関係に入りました。
しかし、朝鮮は自国こそ中国文化の継承者という「小中華」を意識し、北方民族出身の清に対抗心を抱きました。
そのため、両班は清以上に儒教の儀礼や規範を重視しました
。
琉球王国
17世紀初め、琉球王国は日本の薩摩藩の大名島津氏に服属しました。
琉球王国は中国への朝貢を続け
、日本と中国の両方に服属する状態となりました。
そのなかで、日本・中国両方の要素を含む文化が形成されました。
日本
17世紀初頭、徳川家康が江戸幕府を開きました。
家康は朱印船貿易を促進し、日本人が東南アジアに
日本町を形成しました。
東アジアでは、日本・中国・ポルトガル・オランダが銀と生糸の貿易を盛んにおこないました。
やがて江戸幕府はキリスト教禁止や貿易統制を強化しました。
1630年代、江戸幕府は日本人の海外渡航やポルトガル人の来航を禁じる鎖国をおこないました。
ただし鎖国後も、長崎を通じて中国・オランダ、対馬を通じて朝鮮、琉球を通じて中国、というように隣接諸国との国交は継続しました
。