清の社会と文化

表記について
概要
明の後期の文化が動乱期の世相を反映してダイナミックな力強さを感じさせるとすれば、それに比較して清の文化は落ち着いた繊細さを見せています。類似する点も見られ、清は明同様に思想を統一するために、国家事業として書物編纂を進めました。

社会・文化

貿易

17世紀後半、三藩の乱や鄭氏の抵抗が止むと、清は海禁政策を解除しました。
中国商人の交易やヨーロッパ船の来航で、海上貿易が発展しました。
生糸・陶磁器・茶の輸出によって、銀が中国に流入しました。
福建・広東など華南の沿海諸省の貧しい農民 が、禁令を犯して東南アジアに移住しました。
彼らは商業で財を成し、華僑かきょう と呼ばれました。
18世紀半ば、清の乾隆帝は貿易港を広州に限定し、公行こうこう という特許商人の組合を広州に 置いて対外貿易を独占・管理させました。
公行
公行の貿易独占は、アヘン戦争の敗北で締結した南京条約で廃止

人口

18世紀、清の政治が安定し、人口が急増しました。
アメリカ大陸 原産のトウモロコシ・サツマイモは、やせた土地や山地での栽培に適し、清の人口増を支えました。
しかし、土地の不足は解消できず、土地をもたない農民が増えました。

税制

18世紀前半、清では土地税(地銀)の中に人頭税(丁銀)を含めて一括して 徴収する地丁銀制 が実施されました。
明の後期から清の初期の一条鞭法は、土地税と人頭税を別々に徴収

学問

明・清の交替を経験した学者顧炎武こえんぶ は、実証的な研究の必要性を主張し、のちの考証学の基礎を築きました。
実証を重視する考えは、清の中期の学者に受け継がれました。
実証的な古典研究を特色とする学問考証学 が発展し、銭大昕せんたいきんなどの学者が現れました。

小説

清の中期、『紅楼夢こうろうむ 』や官吏の腐敗を暴露した『儒林外史 』などの長編小説が著されました。

西洋との交流

宣教師の重用

清はイエズス会宣教使を技術者として重用しました。

代表的な宣教使

アダム=シャール 湯若望)・フェルビースト(南懐仁)
清の暦の改訂に従事
ブーヴェ 白進
中国全図の『皇輿全覧図こうよぜんらんず 』作製に協力
カスティリオーネ (郎世寧)
西洋画の技法を紹介、北京に建設された円明園えんめいえん の設計に参加
円明園
アロー戦争の際に破壊・略奪
円明園
円明園

布教の禁止

イエズス会宣教師は、中国文化を重んじ、布教する際に孔子崇拝や祖先祭祀を認めました
この方法が功を奏し、康熙帝の治世下でイエズス会以外の宣教師による布教が禁止されました
一方で、この方法に反対する他派の宣教師がローマ教皇に訴え、儀礼に関わる論争典礼問題 が生じました。
イエズス会の布教方法は、ローマ教皇に否定されました
18世紀、典礼問題をきっかけに清の雍正帝は、キリスト教の布教を全面的に禁止しました。

中国への関心

宣教師が中国の思想・制度・文化をヨーロッパに伝えたことで、中国に対する関心がもたれました。
例えば、科挙の制度は、当時のヨーロッパで合理的なものとして評価されました
また、芸術の分野では中国趣味 シノワズリ)が流行しました。