ティムール朝・サファヴィー朝・オスマン帝国

概要
14世紀、モンゴル帝国が解体したことで、ティムール朝などの新興勢力が現れました。のちに現れたサファヴィー朝は、ティムール朝の領土のうちでイランを占領し、シーア派イスラームの国として発展しました。一方、1299年に建国されたオスマン帝国がアナトリア半島を中心に繁栄し、度々ティムール朝と争い、その衰退・滅亡後はサファヴィー朝と争いました。
表記について

ティムール朝とサファヴィー朝

ティムール朝の興亡

チャガタイ=ハン国の分裂

14世紀半ば、中央アジアのチャガタイ=ハン国は東西に分裂しました。

ティムールの治世

1370年、(西)チャガタイ=ハン国出身の 武将 ティムール が西トルキスタンで自立し、 ティムール朝(ティムール帝国) を建国しました。
ティムール朝は、首都 サマルカンド  (ソグディアナ )を中心に繁栄し、イランからイラクに至る領土を支配しました。
ティムール朝の末裔のバーブルがムガル帝国を建設
サマルカンド
この地域は古代にソグディアナと呼称
1402年、 アンカラの戦い 
ティムールが オスマン帝国  に勝利し、バヤジット1世を捕虜とした戦い
ティムールは東方遠征の途中で病死しました。
以後のティムール朝は、分裂・統合を繰り返し、トルコ系遊牧民ウズベクに滅ぼされました。

ティムール朝の文化

ティムールがイランとトルコを統一したため、イラン=イスラーム文化がトルコ=イスラーム文化として発展しました。

天文学・暦法

ウルグ=ベグが建設した天文台を中心に、天文学や暦法が発達しました。

サファヴィー朝の盛衰

サファヴィー朝の成立

ティムール朝の衰退後の16世紀、神秘主義教団の長イスマーイールがタブリーズを占領し、 イラン   サファヴィー朝  を開きました。
サファヴィー朝は、国内統一のために シーア派  を国教とし、古代以来イランの王を意味するシャーの称号を用いました。
イラン人の民族意識が高揚され、一遊牧国家から統一あるイラン国家へと成長しました。
厳密には、シーア派の宗派の1つである十二イマーム派

アッバース1世の治世-最盛期

アッバース1世が次のことに取り組み、サファヴィー朝は最盛期を迎えました。

衰退

サファヴィー朝は次第に衰退し、オスマン帝国にイラク(メソポタミア)を奪われました

オスマン帝国

オスマン帝国の建国

13世紀末、トルコ系遊牧民がアナトリア半島(小アジア)に オスマン帝国  を建国しました。
オスマン帝国は、ビザンツ帝国領を少しずつ奪っていきました。
1366年、オスマン帝国はバルカン半島の アドリアノープル  (現在のエディルネ)を征服し、首都にしました。
スルタン
オスマン帝国の君主が使用した、スンナ派イスラームの世俗の支配者を意味する称号
 セルジューク朝  によって初めて使用
オスマン帝国崩壊の一因-コーヒー
今日のコーヒーは、トルコ語「kahve(カフウェ)」を直接的な語源としています。コーヒーは、元気が出る飲み物としてスレイマン1世に献上され、オスマン帝国に入ってきました。夜間に修行する神秘主義者は、眠気覚ましのためにコーヒーが好み、飲用が習慣化しました。16世紀半ば、ヨーロッパに先駆けてイスタンブルにコーヒー店が開かれました。さて、コーヒー店は社交や情報交換、教育の場として機能しました。字が読めない民衆が耳を傾け、反乱や民族自決の精神を醸成することもあり、弾圧もされました。19世紀には、オスマン帝国からの独立を目指す各地の指導者がコーヒー店に集まり、戦略を練りました。かつてのオスマン帝国の支配階級は、身近な飲み物が帝国の終わりを早めるなど夢にも思いませんでした。
イスタンブルのコーヒー店

バヤジット1世の治世

1396年、 ニコポリスの戦い 
オスマン帝国のバヤジット1世が、バルカン諸国とフランス・ドイツの連合軍に勝利
しかし、1402年にオスマン帝国はティムールに アンカラの戦い で敗れ、一時国力を落としました。復習

メフメト2世の治世

1453年、オスマン帝国の メフメト2世  は、都市 コンスタンティノープル  を攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼしました。
コンスタンティノープル
陥落後、オスマン帝国が首都に定めて イスタンブル と呼称

イスラーム世界の中心へ

セリム1世の治世

オスマン帝国のセリム1世は、サファヴィー朝を破り、シリアへ進出しました。
1517年、セリム1世は マムルーク朝  を滅ぼし、エジプト・シリアを併合し、 メッカ   メディナ  を保護下に置きました。
結果、オスマン帝国の君主は、スンナ派イスラームを守護するスルタンとしての存在を強めました。

ヨーロッパ世界との関係

スレイマン1世の治世-最盛期

オスマン帝国のスレイマン1世は、サファヴィー朝から南イラクを奪い、北アフリカに支配を広げました。
またスレイマン1世は、1535年に宗教の壁を越えてフランスのフランソワ1世と同盟を結びました
一方、次の戦いでヨーロッパに脅威を与えました。

セリム2世の治世

オスマン帝国領内で居住・通商できる特権 カピチュレーション  をヨーロッパ商人に与えました。
カピチュレーションは、 フランス人  ・イギリス人・オランダ人などに与えられました。
スレイマン1世の治世で、オスマン帝国はフランスと同盟関係を開始
カピチュレーションは、のちに不平等条約のもとに変容
1571年、 レパントの海戦 
 スペイン  敗北し 、地中海の制海権を喪失

オスマン帝国の諸要素

君主

オスマン帝国のスルタンは強大な権力をもつ専制君主でした。

共同体

帝国内に住むキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体ミッレトには、一定の自治が認められ 、イスラーム教徒との共存が図られました。

軍隊

オスマン帝国のスルタンの軍隊には、次の2つがありました。
ティマール制
ブワイフ朝が創始したイクター制に類似する、オスマン帝国が創始した制度復習