概要
16世紀前半、北インドを拠点にムガル帝国が成立しました。ムガル帝国は、3代皇帝アクバルの時代に大国へと成長しました。アクバルは軍事や財政の改革のほか、支配下の人々に対して融和的な政治をおこないました。6代皇帝アウラングゼーブが融和を放棄して非ムスリムを圧迫すると、帝国の求心力は急速に弱まっていきました。
ムガル帝国
ムガル帝国の成立
バーブルの治世
16世紀、ティムールの子孫
バーブル
が、アフガニスタンから北インドに侵入しました。
1526年、
パーニーパットの戦い
バーブルが、イスラーム王朝の
ロディー朝
(デリー=スルタン朝最後の王朝)に勝利
勝利したバーブルは、ムガル帝国
を建てました。
『バーブル=ナーマ』
バーブルの回想録で、彼のペルシア語やアラビア語の深い教養が散見
3代皇帝アクバルの治世
3代皇帝アクバルは、次のことに取り組み、帝国の支配体制を整備しました。
イスラームとヒンドゥー教の融和
融和を支えた思想
15~16世紀、次の人物がインドに現れ、宗教の差異を乗り越えようとしました。
この時勢に乗り、3代皇帝アクバルは信仰と内政安定の面から宗教の融和に努めました。
アクバルによる融和政策
3代皇帝アクバル
は、イスラームとヒンドゥー教の融和のために、次のことに取り組みました。
- イスラーム教徒であるアクバル自身が、ヒンドゥー教徒の女性と結婚
- ヒンドゥー教徒など非ムスリムに対する人頭税(ジズヤ)を廃止
- ムガル宮廷に画家が招き、ヒンドゥー教の叙事詩を題材にした細密画を制作
文化面の融合
融和政策の結果、次のような独自の地域文化インド=イスラーム文化が誕生しました。
- ウルドゥー語
ムガル帝国の公用語ペルシア語
と北インドの地方語と混ざってが形成
- ムガル絵画
ムガル宮廷で描かれた細密画をもととした絵画
- ラージプート絵画
宮廷中心のムガル絵画と異なり、ヴィシュヌ信仰やそれに関わる庶民的な題材を扱う絵画
- タージ=マハル
5代皇帝シャー=ジャハーン
がインドに造営した墓廟(死者を祀る建物)
ウルドゥー語
ムガル帝国の公用語ではない
ことに注意
ムガル帝国の転換期
6代皇帝アウラングゼーブ帝の治世
17世紀、6代皇帝アウラングゼーブ
は、ムガル帝国の領土を最大にしました
。
反面、新たな土地を獲得できなくなり、税収入も頭打ちになりました。
そこでアウラングゼーブは、非ムルリムに対する人頭税(ジズヤ)を復活させました
。
アウラングゼーブはこの他にも融和策を放棄し、ヒンドゥー教徒など非ムスリムを圧迫しました
。
アウラングゼーブの政策に非ムスリムやシク教などの勢力が反乱を起こしました。
18世紀初め、アウラングゼーブが死去すると、ムガル帝国は急速に解体に向かいました。
アジアの王国
ムガル帝国以外のインドの王国
ヴィジャヤナガル王国
14世紀、ヒンドゥー国家ヴィジャヤナガル王国
が、デカン高原に成立しました。
ヴィジャヤナガル王国は、北インドのイスラーム勢力と対峙しました。
17世紀、ヴィジャヤナガル王国はイスラーム勢力との抗争で衰退し、南インド各地で地方勢力の自立化が進みました。
マラータ王国
ムガル帝国のアウラングゼーブの政策に、ヒンドゥー教徒が反発し、独立の気運が生じました。
17世紀半ば、ヒンドゥー国家マラータ王国
が西インドに成立しました。
また、西北インドでシク教徒
が反乱を起こし、強大化しました。
18世紀初め、アウラングゼーブが死去すると、インド各地に独立政権が生まれました。
東南アジアの王国
次の国家が交易で発展しました。
- アチェ王国
- マタラム王国
- アユタヤ朝
14世紀に成立したタイの王朝
- トゥングー朝
(タウングー朝)
パガン朝滅亡後の16世紀、ビルマを統一した王朝
ヨーロッパの接近
ポルトガル
1511年、ポルトガル
がマラッカ
を占領し、東南アジア貿易の中心地としました。
強権的な貿易管理をとるポルトガルに対して、ムスリム商人は拠点を移動させて対抗しました。
スペイン
16世紀後半、スペインがフィリピンを侵略し、マニラ
をアジア貿易の拠点としました。
マニラとスペイン支配下のメキシコのアカプルコは、ガレオン船で太平洋を越えて結ばれました。
ボリビアのポトシ
などの銀鉱山で採掘されたメキシコ銀は、マニラを経由して東アジアに流入しました
。
オランダ・イギリス
オランダ・イギリスが、東インド会社を設立し、ポルトガル・スペインにやや遅れて交易に参加しました。
オランダ・イギリスは互いに競い、また、ポルトガル・スペインを抑えながら勢力を伸ばしました。