一体化へ向かう世界

表記について
概要
十字軍の遠征以来、ヨーロッパで香辛料の需要が増大しました。ところが、その供給はオスマン帝国の地中海支配が進むにつれて不安定となりました。ヨーロッパに原産地と直接取引しよう、また、オスマン帝国に対抗する味方を東方に見つけようという気運が高まり、人々を海へと駆り立てました。大航海時代の幕開けです。

ヨーロッパ世界の拡大

大航海時代の幕開け

次のことを背景に、ヨーロッパで海外進出の気運が生じました。
国土回復運動で成立したポルトガルやスペインは、国王の権力が強く、いち早く航海の準備ができました。
これらの国々は、香辛料の産地である「インド」を目指しました。
「インド」
今日のインドの意と異なり、当時のヨーロッパ人は、東アジアから南アジアを漠然と「インド(インディアス)」と呼称
伝説を信じて-プレスター=ジョン
12世紀、東方に強力なキリスト教国があり、イスラームを駆逐しつつあるとの噂が広がりました。この国の国王がプレスター=ジョンです。当時のヨーロッパは、十字軍の苦戦とイスラームの強大化に悩まされていました。当初噂の反響は少なかったのですが、1170年頃、ヨーロッパの権力者のもとにプレスター=ジョンからの手紙が届き、一気に人々を熱狂させました。手紙のねつ造の意図は諸説ありますが、ヨーロッパの権力者はプレスター=ジョンと結んでイスラームと戦おうとし、モンゴルやインドにこの王を求めましたが、終ぞ発見できませんでした。プレスター=ジョンの国は、閉鎖された中世のキリスト教世界が東方に想像した理想国であり、聖書にさかのぼる楽園思想を基調としていると言えます。

「インド」到達

ポルトガル

15世紀初め、航海王子エンリケがポルトガル のアフリカ西岸の探検事業を推進しました。
1488年、ジョアン2世 の後援を受けたバルトロメウ=ディアス がアフリカ南端の喜望峰きぼうほうに到達しました。
1498年、ヴァスコ=ダ=ガマ が喜望峰を回り、インドのカリカットに到達しました。
喜望峰
ディアスがインドへの航路発見に希望を抱き、「Cape of Good Hope」と名付けたことに由来(「希望」と表記しない理由には諸説あり)
喜望峰
喜望峰
バルトロメウ=ディアスの航路
バルトロメウ=ディアスの航路
ポルトガルは香辛料を現地で直接取引して利益を得ました。
ポルトガルの首都リスボン は、インド航路の開拓により、香辛料貿易で繁栄しました

スペイン

スペインは、ポルトガルに遅れてアジアへ進出しました。
1492年、スペイン女王イサベル の後援の下、コロンブス が「インド」を目指しました。
当時、フィレンツェの天文学者トスカネリ は、大地が球体で、大西洋を西進(西回り)した方が「インド」に早く着くと説きました。
コロンブスは、トスカネリ に影響を受けて西進し、バハマ諸島のサンサルバドル島 に到着しました。
コロンブスは、その地を「インド」と思い込み、先住民をインディオと呼びました。
コロンブスの誤認をもとに、バハマ諸島含む一帯の島々を「西インド諸島 」と呼称
コロンブスの上陸
コロンブスの上陸
コロンブスの航路
コロンブスの航路

史上初の世界一周と球体説の証明

1519年、ポルトガル人マゼラン が、スペイン 王の命を受けて香辛料の産地モルッカ諸島を目指し、西回りの大航海に出発しました
マゼランは、南アメリカ大陸南端の海峡(今日のマゼラン海峡)を経て太平洋に出ました。
マゼランはフィリピンで死亡しましたが、1522年、彼の部下は世界周航を達成しました。
太平洋
マゼランに先だってスペイン人バルボアが太平洋岸に到達していたが、命名はマゼラン
フィリピン
スペイン王フェリペ2世の名に由来

アメリカ大陸への進出

コロンブスの到達地

スペインは、コロンブスの「インド」到達の報告を受け、今後発見されていく「インド」の地の領有権を確認する必要がありました。
スペインは、当時船団の到達先で争ったポルトガルと分割方式を交渉しました。
1494年、トルデシリャス条約
西経46度37分を分界線とし、線の西側をスペイン 領、東側をポルトガル 領とすることを両国で交渉・決定
この分界線は、前年にローマ教皇の権威で設定したものを両国で調整
この条約に基づき、「新大陸」のブラジルがポルトガル領、その他大半がスペイン領に決定
トルデシリャス条約
トルデシリャス条約の分界線

「新大陸」と判明

1500年、ポルトガル人カブラル ブラジル に漂着し、その地をポルトガル領と宣言しました。
イタリア出身のアメリゴ=ヴェスプッチ が南アメリカ大陸沿岸を探検し、コロンブス到達の土地がヨーロッパ人にとって「新大陸」だと報告しました。
大陸は、アメリゴ=ヴェスプッチの名にちなんでアメリカと名づけられました。

神の名の下の征服

スペインは、キリスト教布教の名のもとに侵略活動をおこなう者をアメリカ大陸に派遣しました。
彼らは「征服者(コンキスタドール)」と呼ばれました。
代表的なコンキスタドールには、次の2人がいました。
アステカ王国・インカ帝国
アステカ王国・インカ帝国
スペインは、先住民保護とキリスト教化を条件に、先住民と土地の支配をスペイン人入植者に委ねました。
植民地に導入されたこの制度は、エンコミエンダ制 と呼ばれます。
植民者はこの制度に基づき、先住民を労働力として酷使しました。
聖職者ラス=カサス は、スペイン人による先住民の酷使を批判しました

先住民の人口減少

次の理由で先住民インディオの人口が激減しました。
「野蛮」か「文明」か-ラス=カサス
「新大陸」の探検者、またその報告書を見たルネサンスの知識人は、自らの「文明」人ぶりを意識したことでしょう。大航海時代は、人々がルネサンスでの成長を自己確認させる好機を提供しました。このような時代に、「新大陸」での布教を務めたラス=カサスは、先住民に「理性」を見出し、「理性」の欠如を理由に先住民を奴隷とする現状に、異を唱えました。1550年、スペイン王室は、先住民が「野蛮」「文明」のどちらかを公開討論させました。ラス=カサスは討論で勝利できませんでしたが、彼の問いは人々がルネサンスで得た知識・自信に、大きな動揺を与えました。
ラス=カサス

商業革命と価格革命

商業革命

大航海時代の到来で、ヨーロッパの商業は地球規模に拡大しました。
商品の種類・取引額が増え、ヨーロッパ経済の中心は、地中海から大西洋岸都市に移りました。

価格革命

商業の地球規模化は、資本主義経済の発達を促しました。
また、アメリカ大陸の銀山から銀が流入し、ヨーロッパで急激な物価上昇価格革命 が起こりました。
物価の騰貴は、固定値代で生活する領主に打撃を与えました。

東欧・西欧の役割の違い

商業革命で、西ヨーロッパは商工業が活発になりました。
他方、東ヨーロッパは西欧の商工業を穀物輸出で支えました。
エルベ川以東の東ヨーロッパでは 農場領主制 グーツヘルシャフト)で西欧向けの 穀物が生産されました。
これにより、東ヨーロッパでは農奴に対する支配が、近世に一層強化されました。