概要
「太陽の沈まぬ国」と言われたスペインは、フェリペ2世の治世下で最盛期を迎えました。しかし、スペインの繁栄を支えた大航海時代の富は、宮廷での浪費や対抗宗教改革で失われ、スペインは急速に衰退し、交代するようにオランダとイギリスが台頭しました。
ハプスブルク家とスペイン
ハプスブルク家とフランス王家の対立
15世紀末以降、教皇領と小国家に分裂していたイタリア半島は、主要な争いの舞台になりました。
1494~1559年、イタリア戦争
イタリア支配をめぐる神聖ローマ帝国皇帝(ハプスブルク家出身)とフランス王の戦い
1559年、カトー=カンブレジ条約
イタリア戦争の講和条約で、フランスがイタリア進出を断念
イタリア戦争終結後も、18世紀半ばまでハプスブルク家とフランス王家の対立は、重要な対立軸となりました。
スペインの最盛期
15世紀、オーストリアのハプスブルク家は、ネーデルランドを婚姻関係で獲得しました。
ハプスブルク家は、さらにスペイン王位も継承しました。
カルロス1世(カール5世)の治世
1519年、ハプスブルク家出身のスペイン王カルロス1世
が、神聖ローマ帝国皇帝カール5世
に選出されました。
カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇帝の立場上、次の出来事の対応に追われました。
- 1529年、第1次ウィーン包囲
オスマン帝国がハプスブルク家の拠点であるウィーンを攻撃
- 1494~1559年、イタリア戦争
イタリア支配をめぐる神聖ローマ帝国皇帝とフランス王の戦い
フランス王フランソワ1世が、オスマン帝国のスレイマン1世
と宗教の壁を越えて同盟
カルロス1世の治世下、コルテスのアステカ王国征服、ピサロのインカ帝国征服がおこなわれました。
しかし、ラテンアメリカで獲得した銀も戦争と宮廷の維持に使われ、国を豊かにできませんでした。
1556年、カルロス1世が退位すると、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系にわかれました。
フェリペ2世の治世
1556年、スペイン系のフェリペ2世がスペイン王になりました。
フェリペ2世の治世下、スペインは次の出来事で最盛期を迎えました
。
- 1571年、レパントの海戦
スペインがオスマン帝国
を破り、その脅威を一時緩和
- 1580年以降、フェリペ2世がポルトガル王
を兼任
ポルトガル
を併合し、その植民地を支配下においたスペインは、「太陽の沈まぬ国」を実現
- 1568~1609年、オランダ独立戦争
カトリック
(旧教
)を強制するフェリペ2世の圧政に、ネーデルラントが対抗
- 1588年、イギリスに敗北
ネーデルラントの反乱を支援したイギリス
に、スペインが無敵艦隊(アルマダ)を派遣したが敗北
オランダ・イギリスなど貿易面でも押され、スペインの国力は低下していきました。
オランダの独立と興隆
オランダ独立戦争
ネーデルラントは中世以来商工業が盛んで、16世紀にはカルヴァン
派の信仰が広まりました。
スペイン王フェリペ2世
は、支配下のネーデルラントに、カトリック
(旧教
)を強制しました。
1568年、ネーデルラントの諸州が、自治権の没収に対して反乱しました。
1568~1609年、オランダ独立戦争
1579年、ネーデルラント北部7州がユトレヒト同盟
を結成し、スペイン
に抵抗しました。
1581年、北部7州がネーデルラント連邦共和国(オランダ)として独立を宣言しました。
オランダ
ネーデルラント連邦共和国の中心ホラント州に由来
独立宣言後、オラニエ公ウィレムが初代総督に就任
イギリスのエリザベス1世は、独立を宣言したユトレヒト同盟を支援
1609年、オランダ独立戦争は休戦条約で終結し、オランダが事実上の独立を獲得しました。
1648年、ウェストファリア条約で独立を国際的に承認
オランダの興隆
オランダは造船技術を武器に、バルト海貿易を掌握し、富を蓄えました。
17世紀初め、オランダは東インド会社
を設立し、香辛料貿易の独占を目指しました。
17世紀
、オランダのアムステルダムが、国際金融の中心地として栄えました。
イギリスの海外進出
イギリスの王政と議会
イギリスの王権はテューダー朝のもとで強化されました。
しかし国王は、議会においてジェントリ(郷紳)の協力が必要でした。
例えば、宗教改革も議会立法を通じて達成されています。
エリザベス1世の治世
イギリス国教会の確立
1559年、エリザベス1世は統一法
を制定して礼拝の統一を図り、イギリス国教会を確立しました。
オランダの独立支援
エリザベス1世は、スペイン弱体化を目的に、独立を宣言したユトレヒト同盟を支援しました。
1588年、イギリスはスペインの無敵艦隊
に勝利しました
。
ドレーク
1577~80年に世界周航を達成し、無敵艦隊との戦いで活躍した航海者
東インド会社の設立
16世紀前後
、牧羊のために
、地主が農民から農地を取り上げて生垣や塀で囲む第1次囲い込み
が進みました。
結果、エリザベス1世の時代に毛織物工業が繁栄しました
。
これを背景に、1600年、東インド会社
が設立され、積極的な海外進出が開始されました。
フランスの宗教内乱
ユグノー戦争
百年戦争の結果、フランスは国内のイギリス領をほぼ一掃し、中央集権化を進めました。
16世紀半ば、フランスのカルヴァン派はユグノーと呼ばれ、無視できない勢力になりました。
1562~98年、
ユグノー戦争
フランスで新旧両教徒の対立が激化し、内乱が発生
戦争中の1572年、サン=バルテルミの虐殺
で、旧教派が多数のユグノーを殺害
サン=バルテルミの虐殺
絶対王政の確立
アンリ4世の治世
1589年、アンリ4世
が王位につき、ブルボン朝
を開きました。
新教徒のアンリ4世は、旧教に改宗することで宗教的対立の解決を図りました。
1598年、
ナントの王令
(
ナントの勅令)
アンリ4世
が発布し、フランスのカルヴァン派(ユグノー)に信仰の自由を許可
ユグノー戦争が急速に収束
1604年、アンリ4世は東インド会社
を創設しました。
しかし、東インド会社は経営に失敗して解散しました。
1664年、ルイ14世の親政でコルベールが再建
ルイ13世の治世
ルイ13世の宰相
リシュリュー
は、王権の強化に努め、また三十年戦争
に干渉しました。
三十年戦争において、リシュリューはプロテスタント陣営を支援し
、ハプスブルク家に対抗しました。
アカデミー=フランセーズ(フランス学士院)
宰相リシュリュー
が創設した文学の学士院
カペー朝からブルボン朝まで