概要
啓蒙思想の影響を受けた君主は、国家体制の改善や産業の奨励を君主の絶対的な権力で実現しようとしました。このような君主を啓蒙専制君主と呼び、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのマリア=テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世が代表者にあげられます。
プロイセン
プロイセン王国の成立
17世紀初め、ホーエンツォレルン
家のブランデンブルク
選帝侯国がプロイセン公国を併合しました。
1701年、プロイセン公国が王国に昇格しました。
以降、公国を併合していたブランデンブルク選帝侯国を含め、プロイセン王国と呼ぶようになりました。
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の治世
プロイセン2代目の王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世
は、軍備を増強し,絶対王政の基礎を築きました。
フリードリヒ2世の治世(啓蒙専制君主)
オーストリア継承戦争
1740年、オーストリアのマリア=テレジアが、ハプスブルク家の全領土を継承しました。
各国君主は彼女を侮り、その継承を否定しました。
特にプロイセンのフリードリヒ2世
は、その領土内のシュレジエンの権利を主張して占領しました。
1740~48年、
オーストリア継承戦争
フランス
と結んだプロイセンが、イギリスに支援されたオーストリアと戦争
戦争の結果、オーストリアがシュレジエン
を喪失し
、プロイセンが獲得
マリア=テレジアの抵抗
オーストリア継承戦争後、ハプスブルク家のマリア=テレジアは、シュレジエン
の奪回を目指しました。
マリア=テレジアは、長く敵対関係にあったフランス
と手を結ぶ外交革命
を実現しました。
1756~63年、
七年戦争
イギリスの支援を得たプロイセンが、フランス
と同盟したオーストリアと戦争
戦争の結果、マリア=テレジアはシュレジエン
の奪回に失敗
啓蒙専制主義
君主主導で自国の近代化・強国化を進める体制を啓蒙専制主義と呼びます。
フリードリヒ2世は、「君主は国家第一の僕」を自称し、ヴォルテールなど啓蒙思想家に影響を受けた啓蒙専制君主でした
。
また、啓蒙専制君主として知られるフリードリヒ2世は、バッハ
を宮廷に招きました。
啓蒙専制君主
ほかにヨーゼフ2世・エカチェリーナ2世が代表的
統治にはユンカーの力を頼ったため、農民の地位の改善は進みませんでした。
オーストリア
マリア=テレジアの治世
1740年、オーストリアのマリア=テレジアが、ハプスブルク家の全領土を継承しました。
マリア=テレジアは、プロイセンのフリードリヒ2世に対して、次の戦争・外交を展開しました。
- 1740~48年、オーストリア継承戦争
- 敵対していたフランスと同盟(外交革命)
- 1756~63年、七年戦争
ヨーゼフ2世の治世(啓蒙専制君主)
マリア=テレジアの子ヨーゼフ2世
は、啓蒙専制君主として諸改革を押し進めました。
ヨーゼフ2世の画一的改革は、支配地域の民族感情の反発を招きました。
ロシア
農奴の不満
西欧で農奴の解放が進む一方、近世のロシアでは農奴制が強化されました。
1630~71年、
ステンカ=ラージンの乱
ステンカ=ラージンを首領として、自由を求めるロシアの農民が
起こした反乱
ピョートル1世とエカチェリーナ2世
の治世下、農奴制が強化されました
。
ピョートル1世の治世
1682年、ピョートル1世が帝位につきました。
ピョートル1世は自ら西欧諸国を視察し、ロシアの西欧化政策を実施しました
。
国境画定と通商開始
ピョートル1世は、軍備拡大を背景にシベリア経営を進めました。
1689年、
ネルチンスク条約
ロシアのピョートル1世と清
の康熙帝
との間で、通商とシベリアでの国境を決めた条約
「海への出口」の確保
1700~21年、
北方戦争
ロシアのピョートル1世がスウェーデン
に勝利し、バルト
海への出口を確保した戦争
ピョートル1世は戦争中にバルト海沿岸に首都ペテルブルク
を建設
ひげ税-ピョートル1世
ヨーロッパを視察していたピョートル1世は、近代国家では「男性はひげをそる」ことが一般的だと知りました。帰国したピョートル1世は、貴族に対して長いあごひげのそり落としを命じました。ひげは古いロシアを象徴すると考えたのです。ひげに税金を課し、支払いを拒否する者のひげをそる権限を警察に与えました。ひげをそることに抵抗があり、税金の支払い者も多かったそうです。
エカチェリーナ2世の治世(啓蒙専制君主)
18世紀後半、エカチェリーナ2世が帝位につきました。
治世の初期、エカチェリーナ2世は啓蒙専制君主として
様々な改革を試みました。
領土の拡張
エカチェリーナ2世は、次のような領土拡張に努めました。
- 1772~95年、ポーランド分割
- 1783年、オスマン帝国からクリミア半島
を獲得(黒海沿岸まで領土拡大)
農民の反乱
1773~75年、
プガチョフの乱
プガチョフが自らロシア皇帝と名乗って起こした農民の反乱
反乱後、エカチェリーナ2世は、農奴制が強化されました
。
ポーランド
ポーランド分割
ポーランドは、16世紀後半のヤゲウォ
朝断絶後、選挙王制
をとりました。
この制度は貴族の専横と外国の干渉を招きました。
選挙王制
貴族による国王選出の制度で、外国の王族出身者からも選出可
18世紀後半、ポーランドは、プロイセン・オーストリア(第2回除く)・ロシア
(エカチェリーナ2世
の治世)による3度のポーランド分割
に苦しみました。
- 1772年、第1回ポーランド分割
- 1793年、第2回ポーランド分割
- 1795年、第3回ポーランド分割
ポーランド分割の結果、ポーランドという国家は消滅しました。
ポーランドの復興は第一次世界大戦後
第1回ポーランド分割の風刺画
*左からエカチェリーナ2世、ポーランド王、オーストリア大公ヨーゼフ2世、プロイセン王フリードリヒ2世
分割への抵抗
第2回ポーランド分割の後、1794年にコシューシコが義勇軍を率いて抵抗しました。
抵抗はロシアによって鎮圧され、失敗に終わりました。