概要
古代ギリシアのポリスであるアテネでは、前6世紀に参政権をもつ市民が直接的に運用する民主政治が実現しました。今日の民主政治とはいくつか違いがありますが、その世界史的な意義は非常に大きいものです。アテネはペルシア戦争を経てその民主政治を完成させ、また、デロス同盟の盟主として勢力を強めました。
代表的なポリス
ギリシア人の分布
アテネ
アテネの概要
奴隷:
個人所有、総人口の3分の1、市民が借金を理由に奴隷なる場合あり
アテネの政治の変遷
貴族政→財産政治
交易活動が盛んになると、平民のなかにも富裕な者が現れました。
富裕な平民は、金属武器を買い、貴族が担っていた国防に参加しました。
富裕な平民は、密集隊形ファランクスを組む重装歩兵として、騎馬を利用する貴族に代わって軍隊の主力となり、権力を強化しました。
平民は役割を大きくし、参政権を主張して貴族と対立し始めました。
ファランクス
前7世紀、ドラコンが慣習法を成文化し、貴族に有利な法解釈を防ぎました。
前6世紀、ソロンが財産額の大小による市民の参政権を認め(財産政治)、また、市民の負債を帳消しにして奴隷に転落することを防ぎました。
ソロン
財産政治→僭主政治
僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持で非合法に政権を奪いました。
前6世紀、ペイシストラトスが、アテネで僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
ペイシストラトス
僭主政治→民主政への過渡期
前508年、クレイステネスが、血縁に基づく旧来の4部族制を、行政区デーモスを基礎として10部族制に改めました。
さらにクレイステネスは、僭主の出現を防止する制度陶片追放(オストラキスモス)を開始しました。
陶片追放
僭主になる心配のある人物の名を市民に陶器の破片オストラコンに書かせ、投票させて6000票以上集まれば、その者を10年間追放する制度
クレイステネス
オストラコン
スパルタ
スパルタの概要
政治:
貴族政(市民に貴族・平民の区別がないので厳密には「市民政」)
奴隷:
市民共有、市民人口の10倍、被征服民(非ドーリア人)がほとんど
奴隷
スパルタの奴隷はヘイロータイと呼ばれ、農業に従事させられました。
他には、ペリオイコイと呼ばれる奴隷と市民の中間的な存在がいて、奴隷ではないが、参政権をもたず、農業・商工業に従事させられました。
ヘイロータイは、数で市民を圧倒的に上回り、しばしば反乱を起こしました。
立法者リュクルゴスの指針で、市民は貨幣使用や商工業活動を禁止され、ヘイロータイの反乱を防ぐために軍事訓練に専念しました。
リュクルゴス
ポリスの同盟と対立
オリエントとの激突
前500年、全オリエントを統一したアケメネス朝の圧迫に、ミレトスを中心としたイオニア地方のギリシア人植民市が反乱を起こしました。
前500~前449年、
ペルシア戦争
上記の反乱に、アケメネス朝のダレイオス1世が遠征軍を派遣し、アケメネス朝とギリシアの諸ポリスとの間で開戦
①前490年、マラトンの戦いでギリシア側が勝利
②前480年、テミストクレスがサラミスの海戦でアケメネス朝を打破
③前479年、プラタイアの戦いでギリシア側の勝利がほぼ決定
ペルシア戦争
同盟と民主政の確立
アケメネス朝の再侵攻に備えて、諸ポリスは軍事同盟デロス同盟を結び、アテネを盟主にしました。
アテネは、強大な海軍力を背景に他の同盟国に対する支配力を強めました。
アテネでは、軍艦の漕ぎ手を務めるような財産の少ない市民が参政権を得て、前5世紀半ば、将軍ペリクレスの指導の下、民主政が確立しました。
デロス同盟
同盟の金庫が、当初デロス島に置かれたことに由来
ペリクレスの提案に従い、両親ともにアテネの生まれの18歳以上の男性は、その貧富に関わらず、平等に参政権を得ました。
青年男性市民が参加する集会民会がアテネの政治の最高機関であり、将軍などを除く役人は一般市民からの抽選で選ばれました。
役人の責任は、弾劾裁判などで厳しく追及されました。
アテネの民主政は、デロス同盟の諸ポリスに広まりました。
ギリシア民主政の特徴
- 制限選挙
奴隷・在留外人・女性には参政権なし
- 直接民主政
代議制ではなく、参政権をもつ市民全員が参加
デモクラシー
語源は、「民衆の支配」を意味するギリシア語デモクラティア
年表