ドイツ帝国の成立

概要
ドイツ近代国家の成立は、他の西ヨーロッパ諸国に比べて遅れました。19世紀に入っても、ドイツでは多くの領邦が分立しており、各地域の自立性が強かったことが原因の一つとされています。この分立状況を解消する動きのなかで、最終的にはプロイセンを中心とした小ドイツ主義を掲げた陣営が勝利し、ドイツ帝国が成立しました。これを契機にドイツは、鉄道路線網の一層の拡充や重化学工業化を推し進め、ヨーロッパにおける経済大国としての地位を確立しました。
表記について

ドイツ統一への道

経済的統一の達成

1834年、 ドイツ関税同盟  成立
 プロイセン  を中心に、オーストリアを除く大多数の領邦で構成する経済的同盟
ドイツ関税同盟の成立によって、ドイツの経済的統一が果たされました。

政治的統一の挫折

1848~49年、 フランクフルト国民議会 
三月革命を受け、ドイツ統一の構想などが話し合われたドイツ最初の全国的議会
オーストリアを除外した、プロイセン中心のドイツ統一 という 小ドイツ主義  を採択
統一ドイツの皇帝にプロイセン国王を推薦
大ドイツ主義
オーストリアを含め、オーストリア中心のドイツ統一
プロイセン国王が、立場の不確かな国民議会の提案を避けたので、ドイツ統一は果たされませんでした。

北ドイツ連邦の成立

1862年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ユンカー出身のビスマルクを首相に任じました。
首相ビスマルクは、軍備拡張で富国強兵を進める「鉄血政策」を掲げました。
鉄血
鉄とは武器、血とは兵士
1864年、デンマーク戦争
プロイセン・オーストリアが、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐって デンマーク  と開戦
勝利したプロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインを獲得
1866年、 プロイセン=オーストリア戦争  普墺戦争ふおうせんそう 
 デンマーク  から獲得したホルンシュタインをめぐり、プロイセンとオーストリアが開戦
プロイセンが勝利して ドイツ統一の主導権を握り、オーストリアはドイツ連邦を脱退
アウスグライヒ
妥協の意で、普墺戦争後に オーストリアがハンガリー王国の独立を認めたこと
妥協の条件としてオーストリア皇帝がハンガリー王を兼任したため、同君連合のオーストリア=ハンガリー帝国が成立
1866年、プロイセン=オーストリア戦争の結果として、 ドイツ連邦  が解体されました。
1867年、ドイツ統一の主導権を握った プロイセン   北ドイツ連邦  を結成しました。
後に南ドイツの領邦も加わり、ドイツ統一はほぼ果たされました。

フランスとの衝突

プロイセンの強大化は、フランスのナポレオン3世から警戒されました。
1870~71年、 プロイセン=フランス戦争   普仏戦争 
プロイセンとフランスの戦争で、フランスが敗北
講和条約で、プロイセンはフランスの アルザス  ロレーヌ を獲得

ドイツ帝国の成立

小ドイツ主義による統一国家

1871年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、 ヴェルサイユ宮殿  でドイツ皇帝として即位しました。
これにより、複数の領邦からなる連邦制国家として、ドイツ帝国が成立しました。

帝国の政治

皇帝ヴィルヘルム1世の治世下で, 男性普通選挙  が実施され、帝国議会の議員が選ばれました。

宰相ビスマルク

皇帝ヴィルヘルム1世の下、ビスマルクが宰相として独裁的な権力をふるいました。
ビスマルクの名を冠したビスマルク諸島は、19世紀後半に ドイツ  領に編入

内政

対カトリック

ビスマルクは、南ドイツのカトリック教徒に対する  文化闘争  」をおこないました。
文化闘争
近代的思想・政策に批判的なローマ教皇とカトリック教会を排することの呼称

対社会主義-あめむち

弾圧
1860年代、ラサールの指導で、強権政治を批判する社会主義運動が起こりました。
1875年、 ドイツ社会主義労働者党  (のちドイツ社会民主党)が成立しました。
1878年、皇帝狙撃事件
1878年、 社会主義者鎮圧法  制定
社会主義的傾向をもつ全ての結社、集会、出版を禁止した法律
懐柔
ビスマルクは、労働者の社会保険制度(社会保障制度)を整備しました
この取り組みで、社会主義者を懐柔しようとしました。

外交-ビスマルク体制

対フランスの同盟

ビスマルクは、フランスを外交的に孤立させようとしました。
フランスを包囲し、ドイツの安全を図る外交方針をビスマルク体制と呼びます。
1873年、三帝同盟結成
フランスの孤立化させるため、ドイツ・オーストリア・ロシアの皇帝間で結んだ同盟

バルカン半島の利害調停

 ロシア  は、スラヴ人の団結と独立を目指すパン=スラヴ主義を唱えて、バルカン半島の民族問題に干渉しました。
ロシアは、バルカン半島進出を狙う オーストリア  と次第に対立しました。
1870年代、 オスマン帝国  から支配をうける次の国のスラブ人が、蜂起を起こしました。
ロシアは、スラヴ人の蜂起を支援する形で、オスマン帝国との戦争に臨みました。
1877~78年、 ロシア=トルコ戦争  露土戦争 
ロシアとオスマン帝国の戦争で、ロシアが勝利
1878年、 サン=ステファノ条約 
ロシア=トルコ戦争の講和条約
 セルビア   モンテネグロ   ルーマニア  の独立承認
②ロシアがブルガリアを保護国化
保護国
国としての体裁を残しつつも、他国に外交権を奪われている国
1878年、ベルリン会議開催、 ベルリン条約  締結
オーストリア・イギリス・ドイツ帝国が、露土戦争で勝利したロシアを牽制するために開催(ドイツ帝国のビスマルクが主催)
サン=ステファノ条約を修正したベルリン条約が結ばれ、ロシアの南下政策を阻止
 セルビア  ・モンテネグロ・ ルーマニア  の独立承認
 オーストリア  がオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権獲得
 イギリス  がオスマン帝国からキプロス島獲得
ベルリン会議
1884~85年にビスマルクが開催した同名の会議で、アフリカ分割を調停
ベルリン条約
ロシアの保護国とされたブルガリアを、オスマン帝国内の自治国に変更

同盟の見直しと消滅

1873年成立の三帝同盟は、ロシアとオーストリアの利害衝突で消滅しました。
ロシアは、サン=ステファノ条約の修正をうけ、一時的に南下政策を控えました。
ビスマルクは、この状況に乗じて、ロシアとオーストリアの利害をうまく調整しました。
1881年、三帝同盟結成
バルカン半島をめぐって消滅した三帝同盟を再度結成
1882年、 三国同盟 結成
ドイツ・オーストリア・ イタリア  の同盟
1880年代にチュニジアを保護国化した フランス  に対し、不満をもつイタリアを勧誘
1887年、三帝同盟消滅
オーストリアとロシアの対立が再度激化して消滅
1887年、 再保障条約 
三帝同盟の継続が困難とみたビスマルクがロシアとの保障関係維持を策した条約