アメリカの黒人奴隷と西部開拓

表記について
概要
アメリカ合衆国は、領土の購入・併合などを通して版図を広げ、1850年までに大陸国家となりました。国土の拡大は、地域間の利害の違いを強く意識させることにもなりました。1820年代以降、今日の二大政党制度の原型が形成されましたが、それは地域間の利害の違いを反映したものでした。1850年頃から、北部と南部の対立はより激しくなり、リンカンの大統領当選の翌年には南北戦争が始まりました。リンカンは、奴隷解放宣言を発して内外の支持をとりつけるとともに、戦場でも勝利し、合衆国を再び統一しました。

ラテンアメリカの独立

ハイチ革命

17世紀末、カリブ海のイスパニョーラ島の西部が、フランス 領サン=ドマング(現ハイチ)となりました。
18世紀、島でのサトウキビ栽培が拡大し、黒人奴隷が増加しました。
18世紀末、フランス革命の影響を受けたトゥサン=ルヴェルチュール が、ハイチの黒人奴隷反乱を指導しました。
1804年、歴史上初の黒人共和国ハイチ が誕生しました。
トゥサン=ルヴェルチュール
ナポレオン軍に捕らえられて獄死、独立は彼の部下が達成
ハイチの誕生を受け、イギリスは奴隷貿易と植民地での奴隷制を廃止しました。
ハイチ
ハイチ
トゥサン=ルヴェルチュール
トゥサン=ルヴェルチュール

他の独立国

ナポレオンによるスペイン占領で、ラテンアメリカでのスペインの支配力が弱まりました。
これをきっかけに、植民地生まれの 白人クリオーリョ が中心となり、独立運動を起こしました。
結果、1810~20年代、ラテンアメリカに多くの独立国が生まれました。
クリオーリョ
スペイン植民地で生まれた白人
独立した国々は、欧米諸国に原料・食料を輸出し、工業製品を輸入する自由貿易政策を採りました。
この政策は、ラテンアメリカの工業化の遅れを招くことになりました。

南米北部

シモン=ボリバル が、コロンビアやベネズエラ、ボリビアの独立を指導しました。

南米南部

サン=マルティン がアルゼンチンやチリ、ペルーの独立を指導しました。

メキシコ

イダルゴの蜂起などを経て独立が達成されました。

ブラジル

ポルトガルの王子が帝位につき、ブラジル帝国として独立しました。
1889年、ブラジル共和国となりました。

アメリカ合衆国の拡大

買収による領土倍増

1800年、独立宣言の起草者の一人ジェファソン が、アメリカ合衆国第3代大統領に選ばれました。
1803年、ジェファソンはフランス からミシシッピ川以西のルイジアナ を買収し、領土を倍増させました。
ルイジアナ
1800年にスペイン領からフランス領に変更
1819年、アメリカ合衆国は、スペイン からフロリダも買収しました。

工業化の促進

ナポレオン戦争中、当初アメリカ合衆国は中立を維持していました。
1812~14年、アメリカ=イギリス戦争 米英戦争
イギリスが大陸封鎖令に対抗し、海上封鎖でフランスとアメリカ合衆国の通商を妨害したために開戦
ナポレオン戦争後に勝負なしの講和締結
戦争中イギリスからの輸入が途絶えことが原因で、以後アメリカ合衆国が工業中心に発展

外交の基本方針

1823年、アメリカ合衆国第5代大統領モンロー は、次のようなヨーロッパとの相互不干渉を宣言しました。
これはモンロー宣言と呼ばれ、以降アメリカ合衆国の外交の基本方針となりました。

政党政治の基盤

アメリカ合衆国第7代大統領ジャクソンは、選挙権の財産制限を撤廃し、全ての白人男性に選挙権を与えました。
またジャクソンは、北部の起業家などを支持基盤にしたホイッグ党に対抗し、南部を支持基盤とする民主党を結成しました。

西部開拓の推進-「明白な天命」

アメリカ合衆国第7代大統領ジャクソン は、奴隷制廃止に反対し、また、ミシシッピ川以西 先住民を強制移住させる法律を成立させました
結果、西漸せいぜん運動と呼ばれる西部開拓が加速しました。
1840年代、西部開拓は、神が与えた使命「明白な天命 」という考えで正当化されました。
「明白な天命」は、次の出来事でカリフォルニアやオレゴンを獲得する際に特に強調されました。
1848年、カリフォルニアで金鉱が発見された結果 、太平洋岸への移民が増加しました。
この現象は、ゴールドラッシュ と呼ばれました。

南北戦争と再統一

南部と北部の対立

自由州か奴隷州か

アメリカ合衆国の上院には、各州から2名の議員が選出されました。
従って、自由州(奴隷制を禁止した州)と奴隷州(奴隷制を認める州)の数は、奴隷制の可否など当時の争いを左右しました。
西部開拓で新しい州が成立すると、自由州と奴隷州のどちらで合衆国に加盟させるかで、南部と北部が対立しました。

争点①-奴隷制

南部は、綿花のプランテーションの労働力確保のため、奴隷制を支持しました。
北部は、南部への対抗と人道的理由から、奴隷制に反対しました。
1848年に開始した女性参政権運動は、奴隷制を批判
女性作家ストウ は『アンクル=トムの小屋 』を著して奴隷制を批判

争点②-貿易政策

18世紀末にホイットニー が綿繰り機を発明して以来、アメリカ合衆国の綿花輸出は拡大しました。
農業中心の南部は、綿花輸出をさらに拡大させるため、自由貿易を求めました。
商工業中心の北部は、イギリスの工業製品と競うため、保護貿易を求めました。

妥協と対立の再燃

1820年、ミズーリ協定
南部と北部の対立収拾のため、妥協として北緯36度30分以北に奴隷州を認めないとした協定
1854年、カンザス・ネブラスカを自由州奴隷州のどちらにするか、住民の投票で決めるという法律が制定されました。
ミズーリ協定での妥協が崩れ、南部と北部の対立が再燃しました。
また、法律の制定を契機に、奴隷制反対をスローガンとする共和党が、ホイッグ党に代わって結成されました。

南北戦争

1860年、共和党の リンカン が、アメリカ合衆国第16代大統領に選ばれました。
奴隷制拡大反対論者のリンカンが登場したことで、南部諸州は合衆国からの脱退していきました。
1861年、南部諸州は アメリカ連合国 をつくり、ジェファソン=デヴィスを大統領に選びました。
1861~65年、南北戦争
アメリカ合衆国の北部諸州と南部諸州(アメリカ連合国)の内戦
戦争中の1863年 リンカン が奴隷解放を宣言
1863年、北軍が ゲティスバーグの戦い で勝利して優勢
戦争中の1863年、リンカンが「人民の、人民による、人民のための政治」を演説
1865年、南部の 首都リッチモンド が陥落して南軍が降伏