オスマン帝国の動揺と改革

表記について
概要
第2次ウィーン包囲の失敗後、オスマン帝国の領土は縮小の一途をたどりました。オスマン帝国内に民族的な自覚がおこり、帝国からの自立を求める運動も始まりました。この危機的状況を背景に、スルタンのアブデュルメジト1世は西欧化改革を開始しました。
目次
  1. オスマン帝国の支配の動揺
    1. 領土の縮小
    2. 独立運動の始まり
  2. アラブ民族の運動
    1. ワッハーブ王国の建国
    2. エジプトの自立
    3. エジプトの反抗
    4. エジプトの負債と民族運動
  3. オスマン帝国の改革
    1. 西欧化改革
    2. アジア最初の憲法

オスマン帝国の支配の動揺

領土の縮小

17世紀後半 、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に失敗しました。
さらにオスマン帝国は、次の出来事でヨーロッパに対する勢力を後退させました。
オスマン帝国が領土を喪失する一方、ヨーロッパ列強が攻勢に転じました。

独立運動の始まり

フランス革命は、オスマン帝国支配下の人々に影響を与えました。
民族的自覚が起こり、オスマン帝国からの独立を求める運動が起こりました。
ヨーロッパ列強は、利害を考えて独立運動に干渉しました。
1821~29年、ギリシア独立戦争
ギリシア がオスマン帝国から独立した戦争
ロシア・イギリス・フランスがギリシア を支援
ドラクロワ の「キオス島の虐殺」はオスマン帝国 軍による住民の虐殺を題材にしたもの

アラブ民族の運動

ワッハーブ王国の建国

18世紀半ば、イブン=アブドゥル=ワッハーブは、アラビア半島 でイスラームの改革運動を起こしました。
ワッハーブは、イスラームから神秘主義や聖者崇拝を取り除き、「預言者の教えに戻れ」と主張しました。
ワッハーブ(派)運動
ワッハーブを支持するワッハーブ派の運動で、イスラームの原点への回帰を主張
「預言者の教えに戻れ」と主張するワッハーブ 派は、アラビア半島の中央部に拠点をもつサウード 家と同盟を組んでワッハーブ王国を建国しました。

エジプトの自立

1798年、ナポレオンがオスマン帝国支配下のエジプトを占領しました。
しかし、フランスがイギリスとオスマン帝国の連合軍に敗れたため、オスマン帝国の主権が復活しました。
1805年、現地の人々の支持を得て、オスマン帝国軍のムハンマド=アリー がエジプト総督になりました。
ムハンマド=アリーは、次の政策でエジプトの近代化へ向けた改革を推進しました
1818年、ムハンマド=アリーはオスマン帝国の求めに応じて、一時ワッハーブ王国を滅ぼしました。
1822年、さらにムハンマド=アリーは、スーダン 東スーダン)を征服しました。

エジプトの反抗

1831~33、39~40年、エジプト=トルコ戦争
エジプト総督ムハンマド=アリーが、オスマン帝国にシリア総督の地位も要求した戦争
1833年、一度敗北したオスマン帝国は、ロシアにダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通航権を認め、援助の約束を獲得
再び戦争が始まり、フランスはエジプトを援助、ロシアは地中海進出を狙ってオスマン帝国を援助
オスマン帝国劣勢の中、イギリスがエジプトの強大化を警戒して参戦
1840年、ロンドン会議
エジプト総督ムハンマド=アリーにシリアを返還させる一方で、エジプト総督・スーダン総督の世襲を許可
ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の軍艦通過を禁止してロシアの進出を阻み、イギリスが外交的に勝利

エジプトの負債と民族運動

エジプトは、近代化政策と戦争で財政がほぼ破綻していました。
1875年、イギリス は、エジプト からスエズ運河会社の株式を買収し、インドへの道を確保しました。
1876年、エジプトは遂に財政破綻を起こし、イギリス・フランスの財務管理下に置かれました。
スエズ運河
1869年、フランス 人技師レセップス の指揮下、フランスとエジプトの共同出資で開通
1881~82年、ウラービーの反乱 オラービーの反乱
列強の支配強化に反発し、「エジプト人のためのエジプト」を目指したウラービー オラービー)の運動が発端
憲法の制定や議会の開設を求めた、エジプトで初の立憲運動
イギリスが単独出兵して鎮圧し、以後エジプトを保護国化
ウラービーの反乱は、後のエジプト民族運動の原点となりました。

オスマン帝国の改革

西欧化改革

19世紀、オスマン帝国はイェニチェリの廃止などの改革を進めました。
1839年、スルタンのアブデュル=メジト1世 が、ギュルハネ勅令 を出し、行政・軍事の西欧化改革タンジマート を開始しました。
ギュルハネ勅令の発布
ギュルハネ勅令の発布
タンジマートの結果、オスマン帝国は法治主義に基づく近代国家へと体制を改めました。
宗教の別を問わない法的な平等も認められました。
しかし、ヨーロッパの工業製品が流入し、地域産業の没落が問題になりました。

アジア最初の憲法

クリミア戦争後、オスマン帝国では立憲制への要求が高まりました。
1876年、オスマン帝国の宰相ミドハト=パシャが起草したミドハト憲法 が、制定されました。
1877~78年、ロシア=トルコ戦争露土戦争
ロシアとオスマン帝国の戦争で、ロシアが勝利
敗北したオスマン帝国は、ベルリン条約でヨーロッパ側領土の大半を喪失
1878年、スルタンのアブデュルハミト=ハミト2世は、ロシア=トルコ戦争 が起こったことを口実に、ミドハト憲法を停止しました。