概要
18世紀末、イランにカージャール朝が興りました。カージャール朝は、間もなくロシアの南下政策に直面し、トルコマンチャーイ条約でアルメニアを喪失しました。また、同王朝はアフガニスタンをめぐり、東方でイギリスと衝突しました。
イラン・アフガニスタンの動向
カージャール朝
王朝の興りと混乱
18世紀末、カージャール朝ペルシアがイランに興り、テヘランを首都としました。
1828年、
トルコマンチャーイ条約
カージャール朝がロシア
との間で締結した不平等条約
- ロシアに対する治外法権の容認
- 関税自主権の喪失
- ロシアへの東アルメニアの割譲
バーブ教徒
19世紀半ばのイラン
で、新たな宗教バーブ教がイスラームのシーア派から生まれました。
バーブ教は、救世主(マフディー)の再臨を説き、混乱する社会状況の改革を訴えました。
1848年、バーブ教徒
がカージャール朝
に対して武装蜂起しました。
しかし、この蜂起はカージャール朝によって鎮圧されました。
アフガン王国
18世紀半ば以降、アフガニスタン(王国)が成立しました。
19世紀以降、アフガニスタンは、ロシアの南下政策とカージャール朝の侵入に悩まされました。
イギリスは、ロシアやカージャールの勢力がインドに及ぶことを恐れ、アフガニスタンを勢力圏に取り込もうとしました。
1838~42(第1次)、78~80年(第2次)、
アフガン戦争
アフガン王国から外交権を奪うため、イギリスがアフガニスタンに出兵
イギリス
がアフガニスタンの外交権を確保し、同国を保護国化