清と日本の近代化

表記について
概要
アヘン戦争・アロー戦争で敗北した清は、多額の賠償金を支払うために、民衆に重い税を課しました。民衆の不満が高まり、洪秀全が指揮する太平天国の乱が起こりました。反乱の鎮圧には、外国人を指揮官とする常勝軍が活躍しました。常勝軍の活躍をうけて、清は洋務運動と呼ばれる近代化に取り組みました。test

清の動乱と近代化

各地の動乱

アヘン戦争後、清には重税による窮乏化と王朝の統治への不安が広がりました。
様々な宗教結社が生まれ、清の民衆の生活を守ろうと動きました。
「反清復明」を掲げる政治的な結社も存在
例えば、キリストの弟と称する洪秀全 は、上帝会(拝上帝会)という宗教結社を組織しました。
上帝会は、儒教を攻撃し、また、民間信仰の偶像を破壊したため、弾圧を受けました。
上帝
ヤハウェを意味し、上帝会の信仰の対象
1851〜64年、太平天国の乱
洪秀全 が上帝会を母体に太平天国という国を樹立して挙兵
1853年、太平天国は占領した南京を天京てんけい と改称して首都と設定
太平天国は「滅満興漢 」を掲げ、次の政策を主張
曾国藩そうこくはん 李鴻章りこうしょう など清の地方官僚が次の義勇軍(郷勇 )を組織し、反乱鎮圧に活躍
北京条約の締結後、欧米諸国は清の援護に転じ、ウォード・ゴードン など外国人を指揮官とする 常勝軍 が鎮圧に協力
滅満興漢
満州族の清を打倒し、漢民族の国を興すという意味
長髪賊
清側からの太平天国の呼称で、太平天国が満州族の辮髪を嫌って長髪にした ため
太平天国の乱は、清の中央官僚や正規軍の無力さを明らかにしました。
結果、鎮圧に貢献した漢人の地方官僚が台頭しました。

伝統を維持した近代化

太平天国の乱後、清は一時的に国内の秩序を取り戻しました。
同治帝の治世でのこの安定期を「同治の中興」と呼びます。
同治の中興 に、曾国藩 李鴻章 ・左宗棠 など太平天国の鎮圧を機に台頭した漢人官僚が 、西洋の技術のみを導入した近代化の推進洋務運動 を始めました。
この運動は、中国伝統の思想・制度を根幹(体)に据えて変えず、西洋の技術を運用する中体西用 の立場をとりました。
清の法・制度は変わらず 、日本の近代化と差が生じることになりました。

日本の開国と明治維新

開国

1853年、アメリカ海軍軍人ペリーが浦賀に来航し、これを契機に日本は開国に向かいました。
開国の是非をめぐる争いと倒幕運動を経て、1868年、天皇親政の明治政府が成立しました。

西洋に倣った近代化

日本の明治政府は、思想・制度を含めて、西洋に倣った近代化を目指しました。
この目標は、ドイツ憲法を手本とした大日本帝国憲法の発布をもって、ひとまず達成されました。

国境の画定

ロシアとの国境

1875年、樺太からふと千島ちしま 交換条約
日本とロシアが結んだ国境画定条約
ロシアが樺太全島を領有、日本が千島列島全島を領有

琉球王国の帰属

17世紀初め、琉球王国は日本の薩摩藩の大名島津氏に服属しました。
琉球王国は中国への朝貢を続け 、日本と中国の両方に服属する状態となりました。
1874年、台湾出兵
1871年、琉球王国の漂流民の殺害事件を理由に 、明治政府は「琉球民は日本国民」と主張して、台湾に軍を出兵した出来事
清は、イギリスの調停もあって、日本の出兵を正当な行動と容認
この一件で、新政府は「琉球王国が日本に属すと示す事実」ができたと確信しました。
1879年、明治政府は琉球王国を沖縄県 として編入しました。