東アジアの国際秩序の再編

表記について
概要
東アジアに近代化の波が押し寄せる中、南下政策を進めるロシアの脅威が日本に迫りました。日本では朝鮮半島が国防上重要視され、朝鮮に宗主権をもつ清としばしば対立するようになりました。

清と朝鮮の動向

清の外交

外交担当の役所

歴代の中国王朝は、中華思想に基づき、外国を国内の延長のように考えました。
従って、外交を専任する役所がありませんでした。
北京条約で外国公使の駐在が決まり、1861年、清は外交担当の総理各国事務衙門がもん 総理衙門)を設置しました。

周辺地域との分離

欧米諸国は、清の支配が名目的にしか及んでいなかった次の地域を領有していきました。

朝鮮の動揺

国内の混乱

1811~12年、洪景来こうけいらいの乱
洪景来が不平をもつ官僚と窮乏した農民を指導して挙兵

強制的な開国

17世紀以降、朝鮮は清・江戸幕府とだけ外交関係をもちました。
1860年代、欧米諸国は朝鮮に開国を求めました。
朝鮮国王高宗の摂政大院君 は、鎖国体制を堅持し、開国を拒みました
江戸幕府が倒れ明治政府が成立すると、朝鮮は日本との外交も拒否
1873年以降、大院君に代わって王妃の一族であるビン氏が朝鮮の政権を掌握
1875年、江華島こうかとう事件
日本の軍艦雲揚うんようが、朝鮮半島沿岸の測量中に、江華島で砲撃された事件
1876年、日朝修好条規
江華島事件の折衝で日本が朝鮮に開国を迫り、締結した不平等条約
釜山プサン 仁川インチョン 元山ウォンサンの開港

独立か否か

17世紀以降、朝鮮は清に宗主国として従属しました。
19世紀の開国後、朝鮮では次の2派が対立しました。
親清派:
清を宗主国とする現体制の維持を主張
親日派:
清への依存を止めて独立し、日本に接近して近代化すべきと主張
1882年、壬午じんご軍乱
大院君が、閔氏に反発して軍隊を動かした反乱
閔氏は、反乱鎮圧を清に頼り、事件後に親清派として清に依存
1884年、甲申こうしん事変
朝鮮の独立を望む親日派の金玉均きんぎょくきん が、清仏戦争での清敗北を機に、政権奪取を目指した事件
金玉均は日本公使の援助を得たが、清軍の来援で計画失敗

日本の危機意識

朝鮮半島の動向は、日本の領土の防衛に直接影響すると考えられていました。
日本は、欧米列強の侵略やロシアの南下が朝鮮半島に及ぶことを恐れ、朝鮮が清への依存を止め、自主的に文明化を遂げることに期待しました。

日本の懸念
壬午軍乱・甲申事変を通じて、まずは朝鮮の清への依存を武力で断ち切り、朝鮮の近代化を導こうとする主張が、日本国内で強まりました。
朝鮮の文明化への期待棄却-福沢諭吉の「脱亜論」
福沢諭吉は、朝鮮の文明化とアジア一丸での西洋への対抗を理想とし、朝鮮の政治家金玉均に協力しました。しかし甲申事変後、金玉均に再起を促す気力は福沢にありませんでした。1885年、福沢は「脱亜論」を著しました。福沢は「清・朝鮮とアジアを興すのは諦める。また、このままでは西洋が清・朝鮮と日本を同一視して“非文明国”と見る。だから日本も清・朝鮮に対して西洋と同じような付き合い方に変え、自国の文明化を進めることが望ましい」と主張しました。朝鮮の文明化に期待した福沢の「敗北宣言」と言えます。
福沢諭吉

日清戦争

日本と清の関係修繕

1885年、天津てんしん条約
日本と清が、甲申事変への関与で悪化した関係の修繕のために締結した条約
事情による出兵時に、相手国に事前通知(例:清軍出兵時は日本に通知)

日清戦争の開戦

1894年、甲午農民戦争 (東学の乱)
東学 を奉じる全琫準らが朝鮮で起こした反乱
朝鮮は清に派兵を要請し、日本も対抗して出兵(清と日本が朝鮮に出兵
東学
キリスト教(西学)に対する朝鮮の新興宗教の呼称
1894~95年、日清戦争
甲午農民戦争を機に出兵した清・日本両軍が、朝鮮への影響力をめぐって衝突した戦争
1895年、下関しものせき条約
日清戦争の講和条約

大国の圧力と対ロシアの敵意

1895年、三国干渉
ドイツ フランス ロシア が、日本に遼東半島を清へ返還するように勧告した事件
勧告を受け入れ返還した日本では、対ロシアの敵意が増大しました。