概要
19世紀後半からの第2次産業革命は、産業の中心を軽工業から重工業に転換させました。国の工業が発展した一方で、伝統的経済基盤を破壊され、移民として国を離れることになった人々もいました。また、革命が石油・銅・錫・ゴムなどヨーロッパでは得にくい資源を必要としたため、市場および資源の供給地として植民地獲得が欠かせなくなりました。この侵略的な領土拡張の動きを「帝国主義」と言います。
第2次産業革命から帝国主義の成立へ
第2次産業革命
19世紀後半から第一次世界大戦まで、アメリカ合衆国・ドイツを中心に、重化学工業が発展しました。
この発展は、石油
・電力をエネルギー源・動力源に使ったため、石炭・蒸気力をエネルギー源・動力源にした最初の産業革命に対して、第2次産業革命
と呼ばれます。
移民
第2次産業革命は、最初の産業革命に増して、人々の生活基盤や環境を変化させました。
伝統的経済基盤を破壊された人々は、移民となって国を離れました。
19世紀末から20世紀初頭
、東欧・南欧
からの多くの移民が、アメリカ合衆国へ流入しました。
この動きは、後に移民制限運動を招くことになりました。
帝国主義
第2次産業革命は、最初の産業革命に増して、巨額の資本が必要になりました。
資本獲得の市場および資源の供給地として、植民地がより重要になりました。
欧米諸国は、本国と植民地の結びつきを強め、また、新たな植民地の獲得に動きました。
大航海時代以降、西欧諸国による植民地獲得は、「野蛮」な地域をキリスト教の布教で「文明」化するという大義の下でおこなわれました。
1880年代以降、欧米諸国が進めた植民地化は、「野蛮」の「文明」化という大義がやや影を潜め、国力に物を言わせた市場・資源が優先されました。
このような侵略的な領土拡張の動きは、帝国主義
と言われます。
すばらしい時代
19世紀末から第一次世界大戦前、欧米諸国の対立はアジア・アフリカ・バルカン半島などで生じました。
ヨーロッパ中心部を舞台にした戦争は起こらず、好景気の持続もあってヨーロッパ諸国は繁栄期を迎えました。
ヨーロッパ文明への自信、科学の進歩への信頼に支えられ、19世紀末から第一次世界大戦前はベルエポック(すばらしい時代)と呼ばれました。
帝国主義の国々
イギリス
植民地の管理
19世紀半ば以降、イギリスは経済力・海軍力を背景に、世界各地に自由貿易を押し進め、植民地も拡大しましたました。
イギリスは、非白人系植民地では直接支配を、白人植民者の多い植民地では自治領にして間接支配をおこないました。
カナダ
フランスとの抗争後にイギリスの植民地となり
、1867年に最初の自治領として許可
自治領時代のカナダの国旗
*1921~57年の国旗
インドへの道
1875年、イギリスの保守
党の首相ディズレーリ
は、スエズ運河会社の株を買収して、スエズ運河の経営権を握りました。
1880年代、イギリスはエジプトを支配下に置きました。
植民地との連携強化
1895年、イギリス
の植民相ジョゼフ=チェンバレン
は、植民地との連携強化を図り、次の植民地を自治領と認めました。
- 1901年、オーストラリア
- 1907年、ニュージーランド
チェンバレンは、イギリスのケープ植民地の首相セシル=ローズを支援し、植民地を拡大しようとしました。
労働党の結成
1900年、イギリスでは、社会主義団体フェビアン協会などが、労働党の前身である労働代表委員会
を結成しました。
1906年、労働党が結成され、議会を通した社会改革(議会主義)を
主張しました。
フェビアン協会
1884年に創設された、知識人を中心にした社会主義団体で、バーナード=ショーやウェッブ夫妻が活躍
自由党内閣の政策
1905年成立のイギリスの自由党内閣は、労働党の協力を得て、次の法律を成立させました。
- 1911年、国民保険法
失業中の労働者に一定期間生活の補助をおこなうことを定めた法律
- 1911年、議会法
上院は下院を3回通過した法案を反対できないという下院
優位の原則を確立させた法律
成立の背景は、対ドイツの海軍拡張費の確保に、ロイド=ジョージ蔵相が社会上層の税負担を増加すると、上院の多数を占める保守党が抵抗したため
- 1914年、アイルランド自治法
アイルランドに自治権を与える法律
1886年、93年にグラッドストン内閣が提案したが否決
アイルランドの自治の行方
1905年、反英
とアイルランドの即時独立を主張する急進的な政党シン=フェイン党
が結成され、アイルランド独立運動の中心となりました。
1914年、アイルランド自治法
アイルランドに自治権を与える法律
1886年、93年にグラッドストン内閣が提案したが否決
北アイルランドの人々は、アイルランド自治法でイギリスから分離されることに反対しました。
自由党内閣は、1914年の第一次世界大戦の勃発を理由に、自治法の実施を延期しました。
1916年、イースター蜂起
イギリスからのアイルランドの完全独立を目指す急進派が、アイルランド自治法の延期に抗議して復活祭の日(イースター)に蜂起
フランス
ドイツへの対抗
ドイツのビスマルク体制は、フランスを国際的に孤立化させました。
しかし1890年代以降、フランスは次の関係を結んでドイツに対抗しました。
- 1891~94年、露仏同盟
ロシアとフランスの軍事同盟
同盟成立と並行して、ロシアの工業は大量のフランス資本を導入
- 1904年、英仏協商
ドイツの進出に対抗するため、イギリスとフランスが結んだ協力関係
エジプトでのイギリス
の優位と、モロッコにおけるフランス
の優位を相互承認(保護国化のため)
1905年、1911年のモロッコ事件で独仏が対立すると、イギリスは以前に結んだ英仏協商に基づきフランスを支持
モロッコ事件
モロッコをめぐるドイツ・フランスの衝突事件
第三共和政の動揺
第三共和政
下のフランスは、次の事件で大きく揺さぶられました。
- 1887~89年、ブーランジェ事件
元陸相のブーランジェが、国民の対ドイツ感情を利用し、第三共和政
の打倒と軍部による政権獲得を目指した事件
- 1894~99年、ドレフュス事件
ユダヤ系軍人ドレフュスに対するスパイ容疑事件(冤罪事件)
終身刑の宣告後に真犯人が判明したが、反ユダヤ主義的な軍部は真犯人をかばってドレフュスを有罪と決定
作家ゾラが世論に再審を訴えて最終的に無罪、軍部は信用失墜
世論の対立が激化し、第三共和政
を動揺させる政治抗争に発展
共和政の安定
フランスでは、議会・政党に頼らず、労働組合のゼネラル=ストライキで一挙に社会革命を実現しようとする思想サンディカリズムが生まれました。
1905年、第三共和政の下でフランス社会党(統一社会党)が結成されましたが、同党は議会を重視し、サンディカリズムを避けました。
1905年、正教分離法
カトリックの政治介入を断つため、国家の宗教的中立を定めた法律
教会との積年の争いに第三共和政が勝利
ドイツ
ビスマルク体制の終焉
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
は、社会主義者鎮圧法と対外政策をめぐってビスマルクと対立し、1890年に彼を退任させました。
ビスマルクの辞職により、フランスを包囲してドイツの安全を図るビスマルク体制が終わりました。
ビスマルクの退任
世界政策とパン=ゲルマン主義
ヴィルヘルム2世は、積極的な帝国主義政策「世界政策
」を進めました。
他国の植民地や勢力圏の再分割を要求し、海軍拡張を図ったため、イギリス
と対立しました。
ドイツ帝国では、国外のドイツ系諸民族(ゲルマン民族)をまとめて大帝国の建設する主張パン=ゲルマン主義が広がりました。
この主張は、ヴィルヘルム2世の世界政策を支えました。
社会民主党の台頭と修正主義
ビスマルクの失脚後の1890年、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法
を廃止しました
。
ドイツ社会民主党が勢力を伸ばし、1912年、帝国議会第一党になりました。
1890年以降、ドイツ社会民主党はマルクス主義に基づき、革命による資本主義の打倒を主張しました。
のちにドイツ社会民主党内には、議会主義的改革を重視する修正主義
が現れました。
ベルンシュタイン
マルクス主義の修正を唱え、その説を「修正主義」と非難された人物
ロシア
議会政治への期待
20世紀初頭、ロシアでは農奴解放後も地主への従属が続くことに抗議する農民運動が起こりました。
また、劣悪な労働条件の工場労働者のストライキも起こりました。
知識人・社会主義者は専制体制の転換を求め、次の組織を組織しました。
議会の開設
1905年、
血の日曜日事件
日露戦争中、首都ペテルブルク
で戦争中止などを請願したロシアの民衆が、宮殿の警備隊に発砲され、多数の死傷者を出した事件
1905年、第1次ロシア革命(第一革命)
血の日曜日事件
を機に起きた革命運動
労働者の自治組織ソヴィエトがモスクワで武装蜂起
革命の最中、ポチョムキン号でロシア軍水兵が反乱
1905年、
十月宣言
(
十月勅書)
ロシア皇帝ニコライ2世
が出した勅令
自由主義のウィッテ(ヴィッテ)を首相に登用し、立法権をもつ国会(ドゥーマ
)の開設、憲法の制定を約束
十月宣言をうけ、自由主義者は立憲民主党を組織し、国会開設に備えました。
革命運動は急速に消滅し、わずかに起こる暴動は武力鎮圧されました。
農地の私有化
1906年、新たに登用された首相ストルイピン
は、農地の私有化を主眼とする農業改革を実施してミール
(農村共同体)を解体し、富農育成を目指しました。
この試みはかえって農村社会を動揺させ、帝政の基盤を不安定にしました。
アメリカ
革新主義
19世紀末、アメリカ合衆国では、東欧・南欧からの移民の移入によって、都市の貧困問題が表面化しました。
20世紀、巨大企業の独占の規制や労働条件の改善などが図る、革新主義
と呼ばれる諸改革が実施されました。
帝国主義の推進
西部でフロンティアが消滅すると、アメリカ合衆国で帝国主義を求める声が高まりました。
第25代大統領マッキンリー
1898年、
アメリカ=スペイン戦争
(
米西戦争)
スペイン領キューバでの独立運動とハバナ湾でのアメリカ軍艦の爆沈事件を口実に、アメリカ共和党の大統領マッキンリー
の下で、スペインに開戦した戦争
勝利したアメリカ
は、フィリピン
・プエルトリコ
・グアム
を獲得、また、キューバを保護国化
プラット条項
アメリカがキューバの憲法に組み込ませ、財政・外交を制限して事実上保護国とした条項
1899年、国務長官ジョン=ヘイ
は、西欧諸国に比べて進出に遅れた中国市場へ割り込むために、門戸開放宣言を出しました。
第26代大統領セオドア=ローズヴェルト
1901年に大統領になった共和党のセオドア=ローズヴェルト
は、軍事力を背景にした外交政策「棍棒外交
」をおこない、カリブ海地域の支配を目指しました。
アメリカは、独立直後のパナマから工事権・租借権を得て
パナマ運河
を建設し、軍事的に役立てました。
1905年、セオドア=ローズヴェルトの仲介により、日露戦争
の講和条約が結ばれました。
第27代大統領タフト
1909年に大統領になった共和党のタフトは、軍事干渉ではなく、経済的・金融的な手段による外交政策「ドル外交」をおこないました。
第28代大統領ウィルソン
1913年に大統領になった民主党のウィルソンは、政治と企業における人道主義「新しい自由」を掲げました。
呼称は異なりますが、「新しい自由」は革新主義と本質的に同じものでした。
第2インターナショナルの結成
第1インターナショナルの解散後
1864年に結成された第1インターナショナルは、マルクスとバクーニンら無政府主義者の内部対立が深刻化しました。
パリ=コミューン後の1876年、第1インターナショナルは解散しました。
第1インターナショナルの解散後、欧米諸国では労働運動や社会主義が勢力を伸ばしました。
これら運動を支える社会主義思想として、マルクス主義が主流となりました。
第2インターナショナルの結成
1889年(第一次世界大戦前
)、社会主義の新たな国際的組織として、第2インターナショナル
がパリ
で結成されました。
第2インターナショナルでは、ドイツ社会民主党が中心となり、帝国主義・軍国主義への反対運動を組織しました。
また、8時間労働などの労働条件の改善を訴えました。
しかし、社会主義者の中に植民地や自国の利害を重視する者が現れ、第2インターナショナルの結束は徐々に乱れました。