概要
19世紀、ヴィングストンら探検家の活躍でアフリカ内部に天然資源が存在することがわかりました。1884〜85年のアフリカ会議で領有の原則が決まると、ヨーロッパ各国によるアフリカの資源獲得競争が激しさを増しました。
アフリカの分割
植民地化の原則の確認
19世紀後半、リヴィングストン
・スタンリー
がアフリカ大陸の内陸部を探検しました。
探検を支援したベルギーは、報告を受けてコンゴの領有を宣言しました。
西欧諸国はベルギーの宣言に反発し、対立が生じました。
1884~85年、
ベルリン会議
(ベルリン=コンゴ会議)
ベルギー
のコンゴ領有宣言への反発を調停するために、ドイツのビスマルクの提唱が開催した、欧米諸国によるアフリカ分割の会議
- コンゴをベルギー領と確定
- 先に占領した国が領有できるという原則(占有権)を確認
ベルリン会議後、欧米諸国によるアフリカ分割が急速に進展しました。
イギリスのアフリカ進出
エジプト
1881~82年、
ウラービーの反乱
(
オラービーの反乱)
列強の支配強化に反発し、「エジプト人のためのエジプト」を目指したウラービー
(オラービー)の運動が発端
憲法の制定や議会の開設を求めた、エジプトで初の立憲運動
イギリスが単独出兵して鎮圧し、以後エジプトを保護国化
スーダン
エジプトの保護国化後、イギリスは南方のスーダンに侵入しました。
1881~98年、
マフディーの反乱
マフディー
(救世主)を名乗る指導者に率いられた住民が、イギリス
に対して抵抗した運動
マフディーはイギリス総督ゴードンを戦死させ、マフディー国家を建設
イギリス
はマフディー国家を滅亡させた後、スーダン支配を確立
アフリカ南部
17世紀、オランダ
がアフリカ大陸南部に
ケープ植民地を建設しました。
19世紀前半、イギリスはオランダからケープ植民地を獲得しました。
イギリスは、金・ダイアモンドの原産地の領有を目的に、ケープ植民地から周辺国に侵攻しました。
ブール人(ボーア人)
ケープ地域のオランダ人子孫で、トランスヴァール共和国
とオレンジ自由国
を建国
1899~1902年、
南アフリカ戦争
(
ブール戦争
)
イギリスが、ブール(ボーア人)が建国したトランスヴァール共和国・オレンジ自由国に対して起こした侵略戦争
ブール(ボーア人)が激しく抵抗したが、イギリスは両国を破って併合
3C政策
19世紀末以降、イギリスは次の3都市を結ぶ三角地帯を勢力下に置こうとしました。
イギリスのこの政策は、3都市の頭文字をとり、3C政策
と呼ばれています。
- アフリカ南部の都市ケープタウン(Cape Town)
- エジプトの都市カイロ
(Cairo)
- インドの都市カルカッタ
(Calcutta)
フランスのアフリカ進出
縦横の衝突
フランスは、1830年に植民地化したアルジェリア
、1881年に保護国化したチュニジア
を拠点に、アフリカでの植民地の拡大を進めました。
さらにサハラ砂漠周辺をおさえ、フランス領でアフリカを横断しようとしました。
フランスは、3C政策でアフリカを縦断するイギリスと対立しました。
1898年、
ファショダ事件
縦断政策をとるイギリス
と横断政策をとるフランスが、アフリカ大陸のスーダンのファショダで衝突した事件
フランスが譲歩して戦争への発展を回避
英仏間では事件を契機に関係が改善され
、後に英仏協商として結実
ドイツへの抵抗
1904年、
英仏協商
ドイツの進出に対抗するため、イギリスとフランスが結んだ協力関係
エジプトでのイギリス
の優位と、モロッコにおけるフランス
の優位を相互承認(保護国化のため)
1905年、1911年のモロッコ事件で独仏が対立すると、イギリスは以前に結んだ英仏協商に基づきフランスを支持
ドイツのアフリカ進出
1880年代、ドイツはカメルーン
・南西アフリカ・東アフリカなどの植民地を得ました。
これら植民地は経済的価値に乏しく、ドイツは新たな植民地獲得を急ぎました。
1905年、1911年、モロッコ事件
ドイツがフランスのモロッコ進出に抗議して衝突した事件
イギリスが英仏協商に基づきフランスを支持したため、ドイツの計画は失敗
イタリアのアフリカ進出
1880年代、イタリアはソマリランド
・エリトリアを植民地化しました。
1896年、
アドワの戦い
イタリアがエチオピア
に侵入し、敗退した戦い
イタリアは植民地化に失敗し
、エチオピアは独立を堅持
1911~12年、
イタリア=トルコ戦争
イタリアがオスマン帝国のリビア
を獲得した侵略戦争
勝利したイタリアはリビアの支配権を獲得
アフリカ全土の植民地化
20世紀初頭、アフリカはエチオピア帝国とリベリア共和国を除き、西欧諸国の支配下に置かれました。
西欧諸国は、人為的に境界線を定め、現地の人々の繋がりを破壊したので、その後の独立に大きな障害となりました。
太平洋諸地域の分割
イギリスの進出
18世紀後半、イギリス
はオーストラリアを植民地にしました。
当初オーストラリアは流刑先に使われ、流刑者が送られました
。
19世紀、牧羊業の発展や金鉱の発見で
、オーストラリアへの移民が急増しました。
イギリスはニュージーランド
・北ボルネオ
・ニューギニアの南部を植民地としました。
オセアニアでの植民地拡大で、次の先住民が迫害され、人口を減らしました。
- オーストラリアの先住民アボリジニ
- ニュージーランドの先住民マオリ
ニューギニア
現地の人・気候がギニアに類似したことに由来し、オランダが西部を、ドイツが東部を領有
1901年、オーストラリアは自治領として認められ
、オーストラリア連邦
が成立しました。
また1907年、ニュージーランドが自治領として認められました
。
1942年、イギリス連邦の一員として、イギリス本国と対等な地位を獲得
ドイツの進出
19世紀後半、ドイツはビスマルク諸島
・マーシャル諸島
・カロリン諸島
・マリアナ諸島
・パラオ諸島を領有しました。
アメリカの進出
スペイン領の獲得
1898年、
アメリカ=スペイン戦争
(
米西戦争)
スペイン領キューバでの独立運動とハバナ湾でのアメリカ軍艦の爆沈事件を口実に、アメリカ共和党の大統領マッキンリー
の下で、スペインに開戦した戦争
勝利したアメリカ
は、フィリピン
・プエルトリコ
・グアム
を獲得、また、キューバを保護国化
ハワイの併合
18世紀末、ハワイではカメハメハ朝のもとで独立した
王国が建国されていました。
19世紀、アメリカ合衆国はハワイ王国
を滅亡させました。
1898年、アメリカ合衆国はハワイ
を併合しました。