ラテンアメリカへの圧力と列強の二極化

表記について
概要
ヴィルヘルム2世治世のドイツは、積極的な海外膨張策と採り、オーストリア・イタリアと三国同盟を結びました。また、海外膨張策の一環として西アジアへの進出を図りました。これは「3B政策」と呼ばれます。ドイツの3B政策や海軍力拡張はイギリスから警戒されました。イギリスはロシア・フランスに接近し、三国協商を成立させます。第一次世界大戦の対立軸はこのようにして形成されました。

ラテンアメリカ諸国の動向と革命

独立後のラテンアメリカ諸国

1804年、歴史上初の黒人共和国ハイチ が誕生しました。
これを皮切りに、1810~20年代、ラテンアメリカに多くの独立国が生まれました。
ハイチ
ハイチ
19世紀末、欧米諸国の重工業化は、ラテンアメリカの原料・食料の輸出を一層促しました。

アメリカ合衆国の影響拡大

1889年、第1回パン=アメリカ会議
アメリカ大陸の諸問題について討議する国際会議
中南米におけるアメリカ合衆国の勢力拡大を図るために 、1889年以降定期的に開催

メキシコ革命とその影響

アメリカ=メキシコ戦争

1846~48年、アメリカ=メキシコ戦争
戦争前の1845年、アメリカ合衆国がテキサス を併合したことに、メキシコが反対して開戦
勝利したアメリカ合衆国がメキシコからカリフォルニア を獲得
戦争後、メキシコでは自由党のフアレス政権が教会の土地所有の禁止などの改革をおこないました。
1860年代、保守党の反乱に乗じてフランスのナポレオン3世が内政に干渉しようとしました。
この干渉は、アメリカ合衆国などの反対で失敗に終わりました。
19世紀末、メキシコのディアス大統領が鉱山開発など近代化を進めました。
ディアス政権の下、経済は外国資本に支配され、社会の不正と富の偏在が顕著になりました。

メキシコ革命

1910~17年、メキシコ革命
外国資本と結び付いて独裁体制を敷いたディアス 大統領の打倒を目指した、ラテンアメリカ最初の民主主義革命
サパタ ら農民指導者に率いられた農民運動も革命に参加
革命中、メキシコは不安定な状況が続きました。
アメリカ合衆国のウィルソン大統領は、事態への介入を目的に海兵隊をメキシコへ派遣しました。
しかし、この試みはメキシコ側から反発を受け、撤退を余儀なくされました。
1917年、メキシコで民主的な憲法が制定され、土地改革 大土地所有の禁止 ) ・政教分離・大統領権限の強化が決まりました。
メキシコ革命は終結しましたが、ラテンアメリカ諸国に影響を与えました。

列強の二極化

ドイツの対立国

ロシア・フランス

1890年、ドイツ はロシアとの再保障条約を破棄し、積極的な海外膨張策「世界政策」を採りました。
一方、ロシアはドイツに反発し、工業化の資本を得るためにフランスに接近しました。
1891~94年、露仏同盟
ロシアとフランスの軍事同盟
同盟成立と並行して、ロシアの工業は大量のフランス資本を導入

イギリス

ドイツは、次の2点でイギリスと対立を深めました。
国際政治を変えた戦艦-ドレッドノート
ドレッドノート(恐れを知らぬ者)は、1906年にイギリスで建艦されました、世界初の近代的で圧倒的火力とスピードを持つ戦艦でした。各国はこの艦を恐れ、抑止力にドレッドノート級(級)あるいは超弩級の建艦を急ぎました。その意味で弩級戦艦は今日の「核兵器」と同じ性格をもちました。 さて、ドレッドノートは途中燃料を石炭から重油に変更しました。石炭は燃料補給が煩わしく、煤煙ばいえんも濃黒色で目視されやすくなります。対する重油は2倍の熱効率をもち、煤煙も目立ちません。しかし、イギリスは国内で十分な重油を確保できません。そこでイギリスは中東の産出国に目をつけました。
ドレッドノート
長さ

イギリスの協力国

日本

長い間、イギリス は他国と同盟を結ばない「光栄ある孤立」を採りました。
しかし、東アジアで南下政策を進めるロシアを警戒し、日本に接近しました。
1902年、日英同盟
義和団事件の終結後も中国東北部に駐留を続けるロシア を、日本とイギリスが脅威とみなして結んだ同盟

フランス

1904年、英仏協商
ドイツの進出に対抗するため、イギリスとフランスが結んだ協力関係
エジプトでのイギリス の優位と、モロッコにおけるフランス の優位を相互承認(保護国化のため)
1905年、1911年のモロッコ事件で独仏が対立すると、イギリスは以前に結んだ英仏協商に基づきフランスを支持

ロシア

日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策を諦め、バルカン半島での南下政策を始めました。
結果、ロシアは同じくバルカン半島への進出を狙うドイツ・オーストリアと対立しました。
この対立関係上、かつて敵対したイギリスとロシアの関係は急速に和解に向かいました。
1907年、英露協商
日露戦争後 、イギリスとロシアの勢力範囲を決めてアジアでの両国の対立を解消し 、ドイツの進出に対抗した協力関係を形成した協約

対立する2大陣営

三国協商

イギリス・フランス・ロシアの3国の関係は、次の協商・同盟に基づき、三国協商 と呼ばれました。
三国協商は、ドイツ・オーストリア・(イタリア)の三国同盟と対立しました。

三国同盟

ドイツ・オーストリア ・イタリアの3国の軍事同盟は、三国同盟 と呼ばれました。
しかし、イタリアは「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立しました。
イタリアは三国協商側のフランスに接近しました。
結果、三国同盟の実態は、ドイツ・オーストリアの2国の同盟でした。
第一次世界大戦開戦時、イタリアは同盟の一員であるにもかかわらず中立政策を採用
三国協商・三国同盟
三国協商・三国同盟