概要
		西洋諸国は、清に着実に進出しつつも、一方で清の潜在的力量を「眠れる獅子」として恐れました。しかし、清が駆け出しの小国日本にあえなく負けると、西洋諸国は一気に植民地化に乗り出しました。清の改革は遅々として進まず、その場しのぎの施策は諸外国による領土の「租借」を許し、半植民地化を加速させていきました。この動きに清では排外運動が頻発し、なかでも大規模なものが義和団事件でした。事件は各国の出兵で解決されましたが、ロシアが混乱に乗じて満州を占領しました。ロシアの南下政策の脅威は増すばかりで、日本はここに開戦を決めました。
	
 
	
	中国分割
	遼東半島返還の見返り
	1895年、
三国干渉
			
		
		ドイツ
				
			・フランス
				
			・ロシア
				
			が、日本に遼東半島を清へ返還するように勧告した事件
	 
	
	1896年、返還に貢献したことの見返りに、ロシア
			
		は清から東清鉄道の敷設権を得ました。
	東清鉄道
1898~1903年にロシアが満州に敷設した鉄道
	 
	半植民地化
	日清戦争後、清は賠償金の支払いのために、西欧諸国からの借款(政府間の資金貸与)に頼りました。
	19世紀後半、西欧諸国は借款の担保に、中国各地を租借(一定期間の領土借用)しました。
	諸国の租借地
	ドイツ
			
		:山東半島の膠州湾
	ロシア
			
		:遼東半島の旅順・大連
	イギリス
			
		:山東半島の威海衛、九竜半島
	フランス
			
		:広州湾
	
諸国の租借地
	中国進出に遅れたアメリカ
	アメリカ合衆国は、西欧諸国に比べて中国進出に遅れました。
	1899年、国務長官ジョン=ヘイ
			
		は、中国市場へ割り込むために次の3原則を提唱し、他国を牽制しました。
	
		- 門戸開放
中国における商業活動の自由
		 
		- 機会均等
中国における参入機会の均等化
		 
		- 領土保全
中国における主権と領土の侵害禁止
		 
	
	清の改革と再度の失敗
	日清戦争の敗北を受け止め、清で康有為
			
		が日本の明治維新をモデルとした改革変法運動
			
		(変法自強運動)を進めました。
	康有為は、変法運動を通して立憲君主制を目指しました。
	1898年、康有為は光緒帝を説得し、戊戌の変法を断行させました。
	
	1898年、
戊戌の政変
			
		
		改革に反対する保守派が西太后
				
			と結んで起こしたクーデタ
		光緒帝の幽閉、康有為・梁啓超の失脚で変法運動は失敗
	 
	排外運動の激化
	1860年、
北京条約
			
		
		天津条約に追加された、アロー戦争のもう一つの講和条約
		①天津
				
			(長江河口)・漢口
				
			(長江中流)など11港の開港
		②外国公使の北京駐在の承認
				
			
		③外国人の中国内地の旅行の承認
		④キリスト教布教の自由の承認
				
			
		⑤イギリス
				
			への九竜半島南部の割譲
		⑥ロシアへのウスリー江以東(沿海州
				
			)の割譲
	 
	ロシアはアロー戦争の調停を機会に沿海州
			
		を取得
	
	条約で認められたことで、多くの宣教師が清の内地に入りました。
	時に強引な宣教師の布教活動は、各地で反キリスト教運動仇教運動
			
		を招きました。
	
	最も強く反発した宗教的武術集団義和団
			
		は、「扶清滅洋
			
		(清政府を助け、外国を滅ぼす)」を唱えて教会を襲いました。
	義和団事件と半植民地化の加速
	1900~01年、
義和団事件
			
		
		山東省で
				
			勃発して各地に広がった義和団の外国人排斥運動
		西太后ら保守派は義和団を支持して諸外国に宣戦布告したが、イギリス・日本
				
			など8ヵ国の連合軍に敗北
				
			
		ロシア
				
			は東清鉄道保護を名目に満州に出兵し、事件後も撤兵せずに駐留
	 
	
	1901年、
北京議定書
			
		
		義和団事件後、清が出兵した8ヵ国と結んだ協約
		公使館護衛のために外国軍隊の北京駐兵を承認
				
			
	 
	日露戦争
	強まるロシアの脅威
	朝鮮の独立と親露派の政権
	1895年の下関条約で、朝鮮は清から独立しました。
	
	三国干渉で日本を弱体と見た朝鮮では、親露派が台頭して政権を樹立しました。
	1897年、親露派の政権は朝鮮が独立国と示すために、国号を大韓帝国
			
		と改めました。
	満州の占領
	ロシア
			
		は、1900~01年の義和団事件に乗じて満州を事実上占領しました。
	同盟の結成
	イギリス・アメリカ合衆国は、ロシアの南下を警戒しました。
	しかし、1900年代初頭のイギリスは南アフリカ戦争に追われ、余裕がありませんでした。
	
	1902年、
日英同盟
			
		
		ロシア
				
			の東アジア進出に対抗した日本とイギリスの同盟
		
	 
	
ビゴーの風刺画
*イギリスとアメリカが日本をロシアに立ち向かわせる
	開戦
	1904~05年、
日露戦争
			
		
		満州(中国東北)と朝鮮の支配をめぐった日本とロシアの戦争
		対ロシアの強硬方針に傾いた日本がロシアに宣戦して開戦
		日本は長期戦に耐える経済力がなく、ロシアは戦中に血の日曜日事件
				
			とそれに始まる第1次ロシア革命(第一革命)が勃発
	 
	
	1905年、
ポーツマス条約
			
		
		日露戦争の講和条約
		アメリカ
				
			(大統領:セオドア=ローズヴェルト
				
			)が調停
		①日本がロシアの租借地の大連・旅順を獲得
		②日本の大韓帝国(朝鮮)に対する指導権(優越権)を承認
				
			
		③日本が南満州の東清鉄道の利権を獲得
		④日本が樺太南半の
				
			領有権を獲得
	 
	日本は南満州の鉄道経営のために南満州鉄道株式会社を設立
	戦後の関係改善
	日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策を諦め、バルカン半島での南下政策を始めました。
	ロシアの方針転換は、日本・イギリスとの関係を改善し、次の協約が実現しました。
	
		- 1907年、日露協約
				
			
			
日本とロシアの勢力範囲を取り決めた協約
		 
		- 1907年、英露協商