辛亥革命と韓国併合

表記について
概要
20世紀初頭、清朝は西洋諸国による領土分割、過激な排外運動を防げず、その内政は混乱を極めました。1911年、孫文の中国同盟会が武昌で反乱をおこすと、各地で清朝から独立する動きがみられました。1912年に孫文を臨時大統領とする中華民国が成立しましたが、袁世凱が孫文にとってかわって専制政治をおこなったため、革命の理想は失われました。

辛亥革命

義和団事件後の改革

1900~01年の義和団事件後、清は次の改革をおこないました。
上記の改革は、増税と中央集権的な性格のために、民衆の反発を招きました。

革命運動の始まり

19世紀末~20世紀初頭、華僑や留学した漢人は、満州人の清の打倒を目指す運動を起こしました。
1894年、漢人の孫文は、華僑を中心とした政治的結社興中会 を組織しました。
1905年、孫文 は革命を目指す諸団体の結集を図り、中国同盟会 東京で 組織しました。
孫文 は、次の3つを内容とする三民主義 を掲げ、革命運動を指導しました。

鉄道国有化と革命の勃発

1911年、清は民間鉄道を国有化し、この鉄道を西欧諸国からの借款の担保にしようとしました。
資本家や地方有力者は、一方的な鉄道国有令に反対し、四川 で暴動が発生しました。
1911~12年、辛亥革命
四川の暴動の鎮圧を命じられた軍隊が、革命派側に立って武昌 で蜂起
孫文が革命派から臨時大統領に選ばれ、中国史上で最初の共和国中華民国 の建国を南京 で宣言
清の軍人袁世凱 は、革命派と取引し、清の皇帝宣統帝 溥儀)を退位させ(=清の滅亡)、孫文から譲り受けた臨時大統領 に就任
武昌
武昌

袁世凱の独裁と軍閥の割拠

中華民国では、臨時大総統の袁世凱と、袁世凱の独裁に反発する孫文らの中国国民党が対立しました。
袁世凱は反発を鎮圧して正式な大総統となり 、やがて帝政復活(皇位への即位)を試みました
しかし、試みは失敗し、1916年に袁世凱は病死しました。
中国国民党
1919年、孫文が組織した秘密結社中華革命党を改称した政党
袁世凱の死後、袁世凱に抑えられていた有力軍人軍閥ぐんばつが、各地で抗争を始めました。
中華民国の統制は失われ、政府の実権を争奪する内戦状態になりました。

中国周辺部の独立

1911~1912年の辛亥革命は、中国周辺部の独立の気運を高めました。

外モンゴル

1911年の辛亥革命の際に 、外モンゴルは独立を宣言しました。
1924年、アジア最初の社会主義国モンゴル人民共和国 が成立しました。

チベット

1913年、ダライ=ラマ13世がチベットの独立を主張しました。

韓国併合

保護権の確立

20世紀初頭、日本の産業は原料輸入・製品輸出で大陸と強く結びつきました。
日露戦争後、日本は大陸への進出を目指すようになりました。
1904~07年、第1~3次日韓協約
日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権確立のため、日本と韓国との間で締結された協約
韓国の漢城(ソウル)に設置された日本の統監府が、韓国の外交を監督し、実質的支配

保護国化への抵抗

日本による保護権確立に対して、韓国では次の抵抗がありました。
いずれの抵抗も西欧諸国から黙殺され、日本に抑えられました。
万国平和会議
1899年と1907年の2度にわたってオランダのハーグで開催

韓国併合

1910年、日本は韓国を併合し、日本の植民地としました。
韓国の漢城(ソウル)に朝鮮総督府が置かれ、憲兵による武断政治がおこなわれました。
伊藤博文
1909年に暗殺され、初代総督(朝鮮総督府の長官)でないことに注意