アジアの民族運動

概要
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表記について

インドの民族運動

民族的意識と反乱への警戒

イギリスは、インド帝国で鉄道建設を進めました。
鉄道の建設費用は、イギリス本国の投資家から募り、不足分は税としてインドで回収されました。
インド人は、財政負担やイギリス人からの人種差別を経験し、民族的自覚を高めました。
イギリスは、この民族的自覚がインド大反乱(シパーヒーの反乱)の再発に繋がることを警戒しました。

諮問機関と政治組織の結成

1885年、インド人の意見を諮問する会議 インド国民会議  ボンベイで 開催され、不満をそらす場として利用されました。
同年1885年、インド国民会議を母体に、政治組織インド国民会議派が結成されました。
設立当初のインド国民会議派はイギリスに協調的でしたが、その後民族運動の中心勢力となりました。

宗教的対立の利用

イギリスは、民族運動を分断するために、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒を対立させようとしました。
1905年、 ベンガル分割令 
ベンガル州をヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がそれぞれ多数を占める東西の2地域に分割した命令
ティラクが率いるインド国民会議派の急進派 は、イギリスとベンガル分割令に反対する運動を起こしました。
1906年、インド国民会議派はカルカッタ大会を開催し、ベンガル分割令に対する反対運動の決議として、次の4綱領を採択しました。
カルカッタ
ベンガル分割令の対象となったベンガル地方の中心都市

沈静に向けたイギリスの働きかけ

親英的組織の結成

インド総督は、ベンガル分割令によって多数派の州が誕生する利点を、イスラーム教徒に説きました。
1906年、この影響を受けて親英的な 全インド=ムスリム連盟  が結成されました。

分割令の撤回

1911年、イギリスはベンガル分割令を撤回しました。
また、反英運動の中心であったカルカッタからデリーに首都を移しました。

東南アジアの民族運動

インドネシア

倫理政策への転換

オランダは、インドネシアにおける植民地政策を見直し、強制栽培制度を廃止しました。
しかし、インドネシアの疲弊は好転せず、道徳的取り組みが試みられました。
この政策は倫理政策と呼ばれ、キリスト教の布教や住民の福祉、現地への権力分散が重視されました。
倫理政策の一環として、現地人の官吏を養成するために、オランダ語などの教育が施されました。
この教育を受けた者たちに、次第に民族的自覚が生まれていきました。

民族的組織の結成

1912年、インドネシアで イスラーム同盟  が結成されました。
イスラーム同盟は、当初相互扶助的性格の組織でしたが、次第に政治活動を始めました。
後にイスラーム同盟は、オランダの植民地政府の弾圧により崩壊しました。

フィリピン

スペインとアメリカの植民地支配

19世紀後半、フィリピンではスペイン支配を批判し、民衆を啓蒙する活動が始まりました。
1880年代、 ホセ=リサール  がフィリピンの民族運動を指導しました。
1896~1902年、フィリピン革命
フィリピンがスペインとアメリカの植民地支配に抵抗した一連の戦い
次の過程で戦いが展開され、アメリカの勝利で決着
①1898年、アメリカ=スペイン戦争
②1899年、アギナルドを大統領とするフィリピン共和国が樹立
③1899~1902年、フィリピン=アメリカ戦争

ベトナム

1904年、ファン=ボイ=チャウらは、 維新会  を結成し、反フランス闘争を推進しました。
また、 ファン=ボイ=チャウ  は日露戦争での日本の勝利に刺激を受け、 日本  への留学を促す ドンズー(東遊)運動  をベトナムで起こしました。
しかし、日本への留学は日本・フランスの取締りで挫折しました。
1912年、ファン=ボイ=チャウは広東でベトナム光復会を組織し、以前までの運動を引き継ぎました。

西アジアの民族運動

東方問題と民族・宗教的意識

オスマン帝国の衰退と西欧諸国の勢力拡大は、東方問題と呼ばれる争いを生みました。復習
東方問題の激化は、西アジア諸国の民衆に民族的・宗教的自覚を促しました。
 アフガーニー  は、キリスト教国の帝国主義に対抗するため、ムスリム(イスラーム教徒)の連帯 を唱えました。
アフガーニーが唱えた思想は、 パン=イスラーム主義  と呼ばれ、エジプトの ウラービー   オラービー )の運動やイランの タバコ=ボイコット運動 に影響を与えました。

青年トルコ革命

1878年、オスマン帝国スルタンのアブデュルハミト=ハミト2世は、ミドハト憲法を停止しました。
アブデュルハミト=ハミト2世は、パン=イスラーム主義を利用して体制の維持を図りました。
若い軍人や知識人が、「 青年トルコ  」を結成し、憲法復活を目指す運動を起こしました。
1908年、 青年トルコ革命 
オスマン帝国の青年トルコが、ミドハト憲法の復活と専制政治の打倒を目指した革命
ミドハト憲法の復活 とアブデュルハミト=ハミト2世の退位を実現し、青年トルコが政権の中枢に進出
革命をきっかけに オーストリア   ボスニア・ヘルツェゴヴィナ  を併合
 ブルガリア  がオスマン帝国からの独立を宣言し、1909年、国際的に承認

カージャール朝ペルシアの立憲運動

19世紀末、 カージャール  朝ペルシアの政府がイギリスに タバコの専売権を譲渡すると、パン=イスラーム主義の影響で タバコ=ボイコット運動  が展開されました。
この運動はイラン人の民族的意識を高め、専制政治の批判と立憲運動に繋がりました。
1905~1911年、 立憲革命 
 カージャール  朝ペルシアで起きた、イギリスとロシアに従属する政府に対する立憲運動
1906年、フランス人権宣言に影響を受けた憲法を発布
1911年、イギリスと ロシア  の干渉で革命は挫折