第一次世界大戦

表記について
概要
1914年7月28日、オーストリアのセルビアに対する宣戦布告とともに始まった戦争は、後に第一次世界大戦と呼ばれることになります。塹壕戦が続くなかで、戦争は長期化し、兵士や武器・弾薬の補給のために,国民を戦場や生産現場に動員する体制が作り上げられました。国民の生活全般が規制され、思想も統制されました。こうして第一次世界大戦は、参戦国の総力を挙げての戦いとなりました。長引く戦争のなかで、人々の間には次第に厭戦や反戦の傾向が強まり、戦況の悪化とともに革命が起こることもありました。

バルカン問題

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合

オーストリアは、パン=スラヴ主義が国内のスラヴ人を独立運動に走らせることを警戒しました。
そのため、オーストリアはバルカン半島付近のセルビアなどスラヴ人の国の台頭を抑えようとしました。
1908年、青年トルコ革命
オスマン帝国の青年トルコが、ミドハト憲法の復活と専制政治の打倒を目指した革命
ミドハト憲法の復活 とアブデュルハミト=ハミト2世の退位を実現し、青年トルコが政権の中枢に進出
革命をきっかけにオーストリア ボスニア・ヘルツェゴヴィナ を併合
ブルガリア がオスマン帝国からの独立を宣言し、1909年、国際的に承認
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの2州にはスラヴ人が多く、スラヴ人の国セルビアへの編入を望んでいました。
オーストリアによる併合は、スラヴ人から強い反発を招きました。

バルカン戦争

ロシア は、スラヴ人の団結と独立を目指すパン=スラヴ主義 を唱えて、バルカン半島の民族問題に干渉しました。
1912年、ロシア はオーストリアのバルカン半島進出を防ぐため、次の4国のバルカン同盟 結成を支援しました。
1912~13、第一次バルカン戦争
バルカン同盟が、イタリア=トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦
敗北したオスマン帝国 は、ヨーロッパにおける領土のほとんどを喪失
戦争後、獲得した領土の分配をめぐり、バルカン同盟諸国間が対立
1913年、第二次バルカン戦争
第一次バルカン戦争のブルガリアの獲得領土が過大であるとして、他のバルカン同盟(ギリシア・セルビア・モンテネグロ)・オスマン帝国がブルガリアを攻撃
敗北したブルガリア は、ドイツ・オーストリア側(三国同盟側)に接近

ヨーロッパの火薬庫

バルカン半島は、オーストリアやロシア、半島の諸国、オスマン帝国が、激しく争う場所となりました。
このことから、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれました。

第一次世界大戦

大戦の勃発

1914年6月、サライェヴォ事件
オーストリア の帝位継承者夫妻が、ボスニアの州都サライェヴォでセルビア人青年に暗殺された事件
事件の背後に、セルビアの暗躍があったことが判明
1914年7月、オーストリア はドイツの支持を受け、セルビア に宣戦布告しました。
反対にロシアはセルビア支援を表明しました。
諸国も同盟・協商関係で宣戦しました。
1914~18年、第一次世界大戦
ドイツ・オーストリア・ブルガリア ・オスマン帝国の同盟国側4ヵ国と、フランス・ロシア・イギリスなど協商国側27ヵ国の戦争
短期決戦という当初の予想が外れ、長期・物量戦化
ドイツの休戦条約調印とともに大戦は終結
イタリア
三国同盟の一員であるにもかかわらず中立政策
後に「未回収のイタリア」を求めて協商国側に 立って第一次世界大戦に参戦
同盟国 協商国
ドイツ
オーストリア
(オーストリア=ハンガリー帝国)
ブルガリア
オスマン帝国
フランス
ロシア
イギリス
日本
イタリア
アメリカ
(略)

大戦の展開

西部戦線

同盟国側の ドイツ が中立国ベルギーに侵入しました。
さらにドイツは北フランスに侵入しましたが、1914年9月のマルヌの戦い 敗れました
以後、両国の軍が塹壕ざんごうにたてこもり、戦車・航空機・毒ガスなど新兵器を投入し、一進一退を繰り返す戦況となりました。
新兵器・塹壕
新兵器・塹壕

東部戦線

1914年8月、ドイツがタンネンベルクの戦い でロシア軍を破りました。
ドイツはロシアへ侵攻しましたが、広さや厳しい気候を前に決着がつきませんでした。
大戦下の奇跡-クリスマス休戦
1914年12月25日、世界的なドイツのテノール歌手キルヒホフが、ドイツ兵の慰問に西部戦線を訪れました。彼が「Stille Nacht(きよしこの夜)」を歌うと、歌声に気づいたフランス兵士が賞賛を送りました。両軍の兵士の緊張は自然と解け、塹壕から這い出て祝い合いました。交流は別所でも起こり、イギリス兵とドイツ兵のサッカーの親善試合もありました。終戦までに1度だけ起きた奇跡的出来事でした。

戦時外交

同盟国・協商国は、中立国を味方に引き入れるために、大戦後の領土拡大や自治・独立を条件とする次のような秘密条約を結びました。

総力戦

大戦が膠着状態に陥り、各国では国力を戦争に傾ける総力戦体制がとられました。
各国政府は、軍需工業の優先、女性や青少年の軍需工業への動員、食料配給制などを実施しました。
植民地をもつ国々は、植民地から兵や労働力を動員でき、緩やかな統制で済みました。
一方、できなかったドイツ・オーストリア・ロシアでは厳しい統制が敷かれました。
人々は厳しい統制に不満を募らせ、食糧暴動や反戦ストライキを度々起こしました。

大戦の転機

アメリカ参戦

イギリス・フランスの海軍は、海外とドイツの海上輸送を封鎖しました。
1917年、ドイツ が無制限潜水艦作戦を開始し、敵国に関係すると思われる船を、国籍や民間船か否かを問わずに無警告で撃沈しました。
1917年、アメリカ はこの作戦で被害を受け、協商国側としてドイツに宣戦しました。
Uボード
Uボード

ロシア離脱

大戦の開戦以来、ロシアは敗北を重ね、都市は食料・燃料不足に陥りました。
皇帝・国会は十分な対策をとらず、国民の不満が増大しました。
1917年3月、三月革命 ロシア二月革命
労働者・兵士が組織したソヴィエトが、ロマノフ朝の皇帝ニコライ2世 の退位、帝政の打倒を実現した革命
革命は労働者が首都ペトログラードで大規模な抗議を起こし、軍隊も加わったことで開始
ドゥーマ(国会)の議員が臨時政府を樹立
三月革命
革命前までロシアで使用されていたユリウス暦(ロシア暦)では二月革命
1917年11月、十一月革命十月革命
レーニンらが武装蜂起を指揮して、戦争を継続する臨時政府を倒した革命
全ロシア=ソヴィエト会議で新政権(ソヴィエト政権)成立を宣言
十一月革命
革命前までロシアで使用されていたユリウス暦(ロシア暦)では十月革命
1918年3月、ブレスト=リトフスク条約
ロシア のソヴィエト政権とドイツ との間で結ばれた講和条約で、ロシアは不利な条件で第一次世界大戦から単独離脱

大戦の終結

1918年8月、協商国側が反撃を開始しました。
同盟国側のブルガリアとオスマン帝国が降伏、オーストリアが休戦協定を結びました。
1918年10月、ドイツは休戦交渉を申し出るとともに、議会政治を整えて帝政維持の道を模索しました。
1918年11月、ドイツ革命
ドイツのキール軍港での水兵反乱をきっかけとした 革命で、ドイツの帝政を打倒し 共和国を樹立
1918年11月、ドイツの共和国政府は協商国側と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結しました。