概要
		第一次世界大戦後、オスマン帝国を含むイスラーム諸国は苦境に立たされました。特にオスマン帝国は、条約による領土縮小に加え、ギリシアの侵攻も受けました。軍人ムスタファ=ケマルがギリシア軍の追い出しに成功し、窮地を脱しました。人々の熱烈な支持を受けた彼は、トルコ共和国を樹立しました。なお、オスマン帝国の旧領土に関して、大戦中にイギリスが3方向と矛盾する取り決めをおこなっており、今日まで続くパレスチナ問題を引き起こしました。
	
 
	
	トルコ革命
	亡国の危機
	第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
	
	オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
	
		- 1916年5月、サイクス=ピコ協定
				
			
			イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定 フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因 
- 1920年8月、セーヴル条約
				
			
			第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約 ①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ
					
				を支配 ②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配 ③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など 内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約
					
				を締結 
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
	ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
	1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
	オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
	1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル
			
		を奪回してギリシアを撤退させました。
	トルコ共和国の樹立
	ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
	
	
	1923年、大国民議会はトルコ共和国
			
		の樹立を宣言しました。
	ムスタファ=ケマル
			
		がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
	首都
	ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ
			
		を首都と定めました。
	憲法
	1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
	政教分離
	1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました
			
		。
	その他近代化の政策
	ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
	
		- イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
- 女性参政権を実現(女性の地位向上
				
			)
- アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字
				
			表記を採用
ローマ字の読み書きを教えるムスタファ=ケマル
	イスラーム諸国の動向
	エジプト
	イギリスの保護国であったエジプト
			
		で、第一次世界大戦後にワフド党
			
		が独立運動を始めました。
	1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト
			
		の独立を認めました。
	しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
	
	1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
		条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
				
			
	アフガニスタン
	1919年(
第一次世界大戦後
			
		)、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
	イラン
	第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
	1925年、レザー=ハーン
			
		はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝
			
		を開きました。
	1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
	
	パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました
			
		。
	サウジアラビア王国
	1932年、イブン=サウード
			
		はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国
			
		を建国しました。
	イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
	イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
	
		- 1932年、イラク
				
			がイギリス
				
			の委任統治から独立
- 1946年、ヨルダンがイギリス
				
			の委任統治のトランスヨルダンから独立
- 1943年、レバノンがフランス
				
			の委任統治から独立
- 1946年、シリアがフランス
				
			の委任統治から独立
パレスチナ問題の始まり
	第一次世界大戦中、イギリス
			
		はアラブのパレスチナについて、次の3方向と矛盾する条約を結びました。
	
		- 1915年、フセイン・マクマホン協定
				
			
			対オスマン帝国の協力を条件に、アラブにアラブ人の国家建設を約束した条約 
- 1916年、サイクス・ピコ協定
				
			
			イギリス・フランス・ロシアで、アラブ地域分割とパレスチナの国際管理を決めた条約 
- 1917年、バルフォア宣言
				
			
			資金援助を条件に、パレスチナにユダヤ人の国家を建設しようとするシオニズムを支持
					
				 
大戦後、パレスチナはイギリス
			
		の委任統治になりました。
	アラブ人・ユダヤ人は、パレスチナについてそれぞれの主権を主張して衝突しました。
	
三枚舌外交