概要
大戦後のアメリカの繁栄は、「暗黒の木曜日」を境に瓦解しました。その余波は西洋諸国、そして日本にも及び、各国はその対応に追われました。資源・植民地を「持てる国」は、ブロック経済を展開して、難局を乗り切ろうとしました。しかし、それらを「持たざる国」は、他国のブロック経済に弾かれ、対外侵略に頼るほかありませんでした。
世界恐慌の広がり
暗黒の木曜日
1920年代、アメリカでは次の2つの状況が生じていました。
- 輸出盛況による、アメリカの農産物・工業製品の過剰生産
- 好景気による、アメリカ企業の株の投機
株価
企業の業績・株の人気に応じた人々の株の売買で変動(業績悪化=株価下落)
株
西洋諸国が第一次世界大戦後の経済復興に徐々に成功し始めました。
アメリカで生産された品物が売れず、企業の業績も悪くなりました。
株価の下落を恐れた人々が、急いで株を売り、株の人気をさらに下げました。
1929年10月、ニューヨーク(ウォール街)の株式市場で株価が暴落し
、アメリカで大不況(恐慌)が始まりました。
企業の倒産、工場の閉鎖、失業者の増加など、経済が破綻しました。
国際金融の中心であるアメリカの恐慌は、全世界に波及しました。
アメリカから始まった恐慌は、規模・期間の長さから世界恐慌と呼ばれます。
ウォール街に詰めかけた人々
その他の背景
恐慌の背景には、次のこともあげられます。
- 1920年代の経済の長期拡大の反動
- 国内産業を保護するための関税引き上げが国際貿易を縮小
各国の恐慌対策
アメリカ
経済不干渉と失敗
1931年、アメリカ大統領フーヴァー
は、世界恐慌への対応として、ドイツの賠償金支払いと連合国の戦債支払いを1年間停止することを宣言しました。
フーヴァーは、ヨーロッパを安定させて恐慌の拡大を防ぎ、経済への干渉を極力避けることで、資本主義経済の自動調節機能に期待しました。
この宣言はフーヴァー=モラトリアム
と呼ばれ、効果がありませんでした。
資本主義経済の自動調節機能
アダム=スミスの提唱した「見えざる手」のこと
ニューディール
1933年、アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト
は、ニューディール
(新規まき直し)と呼ばれる次の恐慌対策を実施しました。
- 農業調整法
(AAA
)
農業生産を調整し、農産物価格を引き上げて
農民の生活安定を図った法律
- 全国産業復興法
(NIRA
)
工業製品の価格協定を公認し、産業の復興を促した法律
- テネシー川流域開発公社
(TVA)など公共事業による失業者増加の防止
- ワグナー法
労働運動を促す
目的で、労働者の団結権と団体交渉権
を認めた法律
ニューディールは、政府が経済介入する社会主義的な要素を含む政策でした
。
TVAの公共事業に従事する労働者
善隣外交への転換
対ソ連
1933年、アメリカはソ連
を承認して国交を開き、貿易によって少しでも景気を回復しようとしました。
対ラテンアメリカ
アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト
は、南北アメリカの経済の一体化を目指し、ラテンアメリカ諸国との友好に努める善隣外交
を始めました。
例えば1933年、アメリカはキューバに対するプラット条項を廃止するなど内政干渉を控えました。
イギリス
緊縮財政と金本位制の停止
イギリス
の第2次マクドナルド
内閣は、財政再建のため失業保険金の削減
を打ち出しました。
この政策を受け、与党の労働党はマクドナルドを除名しました。
1931年、除名されたマクドナルドは、保守党などの協力を受けて挙国一致内閣を組織しました。
マクドナルド
の挙国一致内閣は、金本位制を停止しました
。
挙国一致内閣
国家的危機が起こった場合、対立政党も加えて構成する内閣
ブロック経済
1932年、
オタワ会議
カナダのオタワで開かれたイギリス帝国経済会議
イギリス連邦内の関税を下げ、連邦外の国に高い関税を課すブロック経済政策
スターリング=ブロック
を開始
ブロック経済政策
宥和政策
1935年、保守党内閣が成立すると、ナチス=ドイツの反ソ的態度に期待し、ドイツとの対決を避ける宥和政策を採用しました。
フランス
ブロック経済
1930年代、フランスは世界恐慌への対応策として、植民地・友好国の関税を下げ、他国に対して高関税を課すフラン=ブロック
を形成しました。
ファシズムへの対抗
ドイツでヒトラー政権が成立すると、フランスでは反ファシズムの動きが生じました。
1936年、社会党のブルム
を首相とする人民戦線内閣が成立し、反ファシズムを掲げました。
人民戦線内閣は共産党からも支持されました
。
人民戦線
ファシズムへの反対、戦争への反対を目標として結成された集団のこと
ソ連
世界恐慌と社会主義国
世界恐慌時、ソ連は資本主義国との繋がりが少なく、影響を受けませんでした。
ソ連は社会主義の基礎を築き、資本主義国からも注目されました。
スターリン体制
ソ連のスターリン
は、根拠のない罪状を着せ、反対派の大量粛清(大粛正)をおこないました
。
また、スターリン自身への個人崇拝を強めました。
1930年代からの、スターリンによる独裁政治をスターリン体制と呼んでいます。
国内政策
ソ連は次の国内政策をおこないました。
対外政策
ソ連は、ファシズムの脅威に対抗するため、一転して資本主義国と連携しました。
1934年、ソ連は国際連盟
に加盟しました。