概要
世界恐慌に対して、資源・植民地を「持たざる国」は、他国のブロック経済に弾かれ、対外侵略に頼るほかありませんでした。第一次世界大戦後、平和維持のためにヴェルサイユ体制・ワシントン体制が展開されていましたが、「持たざる国」はこれら秩序へ挑み始めました。
満州事変と日中戦争
好景気からの急降下
第一次世界大戦期、日本は大戦景気に支えられました。
しかし、徐々に不況に転じ、1927年の金融恐慌、1929年の世界恐慌が追い打ちをかけました。
社会不安の拡大をよそに、日本の政党は政権争いを続けました。
政党への期待が薄れ、一部の軍人は、大陸支配の拡大で経済危機を乗り切ろうと考えました。
満州事変
1931年9月、
柳条湖事件
日本の関東軍が満州の柳条湖
で南満州鉄道を爆破した事件
関東軍は、爆破を中国の国民政府の犯行として扱い、軍事行動をおこして満州の大半を占領
以降、1933年5月に軍事行動が停止されるまでを満州事変
と呼称
満州
日本の軍事行動は国際的に批判され、真相解明のために国際連盟
によってリットン調査団
が派遣されました。
1932年、関東軍は既成事実をつくるため、清朝最後の皇帝溥儀
を執政
として満州国
を建国しました。
リットン調査団および国際連盟は、満州国を認めず
、軍事行動を自衛のためとする日本の主張を退けました。
1933年3月、日本は国際連盟
を脱退しました。
満州国は内モンゴルの東部まで支配
国民政府の優先事項
国民政府
満州事変勃発後も、中国の国民政府は中国共産党との戦いを優先しました。
中国共産党
1934年、共産党軍
(紅軍)は、国民政府の包囲から逃れるために中国奥地を目指す長征
を実行しました。
1935年8月、中国共産党は抗日民族統一戦線の結成を呼びかける八・一宣言
を出しました。
1936年、
西安事件
八・一宣言に影響を受けた張学良
が西安
で蔣介石
を監禁し、内戦停止と抗日民族統一戦線を迫った事件
説得を受け入れ、蔣介石が第2次国共合作を約束
日中戦争の開戦
1937年7月、
盧溝橋事件
北京に駐留する日本軍と国民政府軍が、北京郊外で軍事衝突した事件
1901年の北京議定書に従い、諸外国は北京に駐兵
各地での軍事衝突を受け、1937年9月、中国国民党と中国共産党による第2次国共合作
が成立しました。
以降も衝突は拡大を続け、日中戦争と呼ばれる全面的交戦状態に入りました。
1937年12月、日本は南京
を占領しました。
日本の停戦の呼びかけに対し、国民政府は首都を重慶
に移し、アメリカ・イギリスなどの支援を得て抗戦を続けました。
1940年、日本は国民政府との交渉を断念し、南京
に汪兆銘
の親日政府を樹立しました。
日本は南京の政府を正式な政府として停戦交渉を進めましたが、中国の民衆から支持を得られませんでした。
ドイツの再軍備
ナチ党の台頭
第一次世界大戦後、ドイツではヒトラーを指導者とするナチ党(ナチス)が、次のことを主張しました。
- ユダヤ人排斥を主張する人種差別主義
- ヴェルサイユ条約破棄
- 民族共同体建設による国民生活の安定
現状否定と暴力に訴えるナチ党の主張は、当初支持されませんでした。
1929年からの世界恐慌は、アメリカに復興援助を頼るドイツに、大きな被害を与えました。
ドイツで社会不安が広がると、ナチ党の大衆宣伝に心動かされる人が増えました。
1932年、ナチ党は選挙で第一党になり、1933年、ヒトラーが大統領ヒンデンブルク
から首相に任命されました。
ヒトラーを囲む青年
*ヒトラー人気を強調するメディアの宣伝
ナチ党の一党独裁
1933年、
国会議事堂放火事件
ドイツの国会議事堂が放火された真相不明の事件
ヒトラーは事件を口実に共産党など左翼勢力を弾圧
1933年、
全権委任法
国会の立法権を政府に委譲した法律
全権委任法成立後
s>、ヒトラーはナチ党以外の政党を解散し、ナチ党の一党独裁体制を築きました。
1934年のヒンデンブルク大統領の死後、ヒトラーは大統領の権限をもあわせた総統
と称しました。
ナチ党の独裁体制成立以降のドイツをナチス=ドイツと便宜的に呼称
ナチ党政権(ナチス=ドイツ)の政策
監視と強制収容
ヒトラーは、反対派やユダヤ人を秘密警察ゲシュタポ
に監視させ、強制収容所に押し込めました。
このため、社会主義者・ユダヤ人などが国外へ亡命
例えば、アインシュタイン
がナチ党の支配から逃れて亡命
公共事業と軍需生産の拡充
ナチス=ドイツは、アウトバーン
(自動車道路)の整備など公共事業や軍需生産によって、失業の解消を図りました。
オリンピックの開催
1936年、ベルリンでオリンピックが開催されました。
ヒトラーはオリンピックを国威発揚のイベントとして利用しました。
再軍備
1933年、ナチス=ドイツは国際連盟
から脱退し、1935年、徴兵制
の復活と再軍備
を宣言しました。
再軍備宣言は、イギリス・フランス・イタリアから抗議を受けました。
また同年1935年、住民投票によってザール地方を編入しました。
ザール地方
第一次世界大戦後、フランスが国際連盟の管理下で炭鉱の権利を獲得
住民の90%がドイツ系で民族感情が高まり、帰属を住民投票で判断
ザール地方
1936年、
海軍協定
各国がナチス=ドイツの再軍備に抗議する中、宥和政策を採るイギリスがドイツと締結し、その海軍力保有を認めた条約
1936年、ナチス=ドイツは仏ソ相互援助条約を理由に
ロカルノ条約
を破棄し、非武装地帯の
ラインラント
に進駐しました。
仏ソ相互援助条約
1935年、ナチス=ドイツの再軍備宣言に対抗するため、フランス・ソ連が不可侵条約を強化したもの
三国枢軸の形成
イタリアの対外侵略
イタリアは経済基盤が弱く、世界恐慌で行き詰まりました。
イタリア首相ムッソリーニは、対外侵略で苦境を脱しようとしました。
1935~36年、ムッソリーニはエチオピア
を侵略しました。
国際連盟はイタリアに経済制裁を実行しましたが、十分な効果をあげられませんでした。
枢軸の形成
1936年、ベルリン=ローマ枢軸
ナチス=ドイツとイタリアの協力体制
枢軸
物事の中心となる部分
イタリア首相ムッソリーニが「両国を枢軸としてヨーロッパの国際関係は転回する」と演説
ベルリン=ローマ枢軸
(左:ムッソリーニ、右:ヒトラー)
スペイン内戦
1931年、スペインで王政が崩壊すると、政局が混乱しました。
1936年、社会党のプルム
を首相とする人民戦線内閣(人民戦線政府)が成立しました。
人民戦線
ファシズムへの反対、戦争への反対を目標として結成された集団のこと
1936~39年、
スペイン内戦
旧王党派や地主層に支持された軍人フランコが、人民戦線政府に対して起こした反乱
イタリアとナチス=ドイツがフランコを援助、ソ連と国際義勇軍が人民戦線政府を援助
戦火拡大を恐れ、イギリス・フランスは不干渉政策を採用
フランコ
がマドリードを陥落させて勝利
ファシズムに抵抗した文化人-ピカソ
1936年、スペインでは、反ファシズムを掲げる連合「人民戦線」が、選挙で勝利して政府を組織しました。しかし、軍人フランコらが反乱を起こし、スペインは内戦状態となりました。ドイツとイタリアが反乱軍を支援したため、内戦はファシズムと反ファシズムの構図となりました。内戦中、ドイツがスペインの小さな町ゲルニカを無差別に爆撃しました。ピカソはそのおぞましさに怒り、この惨状を「ゲルニカ」として描きました。
ヴェルサイユ体制・ワシントン体制への挑戦
1933年の国際連盟の脱退後
、日本・ドイツは、国際的孤立を避けるため次の協力関係を結びました。
1936年、
日独防共協定
防共(反ソ連、反共産主義)を掲げた日本とドイツの協定で、同じ資本主義国の米英仏からの好意を期待
1937年、
日独伊防共協定
日独防共協定にイタリアが加盟
1937年、イタリアは国際連盟を脱退しました。
日本・ドイツ・イタリアは、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制に挑みました。