概要
ロカルノ条約破棄、ラインラント進駐に踏み切ったドイツは、より侵略的意思そして1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻、この2日後にイギリス・フランスが宣戦し、第二次世界大戦が始まりました。開戦当初のドイツは、破竹の勢いで制圧地を広げていきました。
ドイツの侵攻と再度の世界大戦
宥和政策の限界と拡大する侵略
1938年、ドイツはドイツ民族統合を名目に、オーストリア
を併合しました。
さらにドイツは、ドイツ人系住民が多いチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求しました。
1938年、
ミュンヘン会談
ドイツにチェコスロヴァキア
のズデーテン
地方を割譲した、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4ヵ国首脳会談
イギリス・フランス
が譲歩して対立回避を図る宥和政策を採り、ドイツがこれ以上の領土要求をしないことを約束させて割譲を容認
この会談を経て、翌年にチェコスロヴァキアの解体
1939年、ドイツは会談の約束を破り、次の侵略を強行しました。
ダンツィヒ
ヴェルサイユ条約で、国際連盟管理下の自由市と決定(実質的にドイツからポーランドに割譲)
ポーランド回廊
第一次世界大戦後
、ヴェルサイユ条約で北海への出口としてポーランドに割譲された、ドイツ本国と東プロイセン間の領土の呼称
保護領・保護国
対象地域に国家があるか否かの違いのみ
上記動きに刺激され、1939年、イタリアがアルバニアを併合
イギリス・フランスの方針転換
ドイツとイタリアの動向を受け、イギリス・フランスは宥和政策を止めました。
イギリス・フランスはポーランドの安全保障を約束しました。
衝撃的連携と開戦
1939年、
独ソ不可侵条約
ドイツと資本主義国から敵視されていたソ連が提携し、世界を驚嘆させた条約
秘密協定として、後の両国によるポーランド分割とソ連のバルト三国併合を約束
1939年、ソ連との提携で力を得たドイツが、ポーランドに侵攻しました。
ポーランドとの安全保障から、イギリス・フランスはドイツに宣戦しました。
1939~45年、第二次世界大戦
ドイツ
がポーランド
に侵攻して始まった世界大戦
ファシズム・全体主義が台頭した枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)と、連合国(イギリス・フランス・アメリカ)が対立
初期の戦況は枢軸国側が優勢だったが、最終的に連合国側が勝利
第二次世界大戦の展開
ソ連の侵攻
1939年9月、ドイツに侵攻されたポーランドは、ソ連の侵攻も受けて敗北しました。
ポーランドはドイツとソ連で分割されました
。
ドイツとソ連は独ソ不可侵条約でポーランド分割を事前に約束
1939年11月、ソ連はフィンランド
に侵攻し(ソ連=フィンランド戦争
の開始)、翌年国境地帯を獲得しました。
さらにソ連は、バルト3国
(エストニア
・ラトヴィア
・リトアニア)を併合しました。
ドイツは独ソ不可侵条約でソ連のバルト三国の併合を承認
ドイツの快進撃とイタリア参戦
ドイツは次の快進撃を達成しました。
- 1940年4月、デンマーク・ノルウェーに侵攻
- 1940年5月、オランダ
・ベルギー
に侵攻
- 1940年6月、フランスに侵攻してパリを占領(フランスの降伏)
これらの快進撃を見て、イタリアはドイツ側について参戦しました。
1941年4月、ドイツはユーゴスラヴィア
とギリシアを占領しました。
フランスの抵抗運動
1940年の降伏後、フランス北部はドイツが占領し、フランス南部はペタン
を国家主席としてヴィシー
につくられた政府が統治しました。
ヴィシー
政府はドイツに協力する政策を採りました。
一方、フランス軍人ド=ゴール
はイギリス
に亡命して自由フランス政府
を樹立し、レジスタンス(徹底抗戦)を呼びかけました。
イギリスの防衛
1940年、チャーチル
がイギリス首相に就任し、対独強硬論を主張してドイツとの戦争を指導しました。
日本の対米対立回避
1941年、
日ソ中立条約
日本が独伊の関係にソ連を引き込み、硬化するアメリカの態度を緩和しようとした条約
当時、ドイツはバルカン半島進出をめぐってソ連と対立し始めていました。
従って、日ソ中立条約は日独伊とソ連の連携に繋がらず、かえってアメリカの態度を厳しくする結末となりました。